承認欲求(世界動向とトムカリー問題)

昨今よく出るキーワード、「承認欲求」。これは厄介である。

この度、米国の日系知識人フランシスフクヤマの「アイデンテティ」を読んだところ、かなりもやもやが晴れてきた。氏は「承認欲求で世界は動く」というのだ。発表されたのは2016年直後のことだ。米国では大統領選挙でトランプが当選し、イギリスのEU離脱が話題になったころである。

しかし、その後起こった、プーチンの戦争、イスラエル・ハマス戦争も同じ構図であることがわかる。さらにムモナンビ、トムカリー問題についてもそうだ。これらはすべて同じ構造から発生している現象に見えてくる。

自尊心や承認欲求の問題だ。自尊心は承認欲求を必要とするのだ。

すべて、大国やかつての大国、もしくは国だけでなく個人や集団など平然とマウントしていた側が、その存在を脅かされるような、威信・尊厳(思い込みかもしれないが)を傷つけられるような危機感、恐怖感を感じてしまっていること。つまり国家や民族、組織、集団、個人の「承認欲求問題」が根底にある。その背後には、「大きな物語」が終わり、だれもが自由を獲得したかのような国際社会のなかで、どこかしこで「社会的規範」というものが崩れ、さまざまな価値観が登場し、どれを信じていいのかわからなくなってしまうという混乱の時代背景がある。

プーチンは迫りくるNATOの加盟抗勢に対し、西欧諸国とは違う大国としてのロシアの存在自体を無視されていると危機感を募らせて、自尊心も傷つけらたと思い込み、軍事行動に出た。

パレスチナもイスラエルの長年の支配や横暴に我慢が限界になったのだろう、極右のハマスが政権にはいり、アメリカよりにかた向きはじめる周囲のアラブ諸国の動向に危機感を感じ、さらにウクライナ問題で周囲から見擦れられた感もあったのだろう、ハマスは大規模な軍事行動に走ってしまった。

イスラエルは突然のハマスの攻撃に、モサドも完璧だといわれた防衛網の破綻で、威信、自尊心を崩されたと躍起になってしまい。右に偏った政権はこれぞ幸いとガザに大規模に侵攻している。そこには人道的配慮など全く感じられない。

中国も米国中心の新自由主義経済独占に対し、東洋の大国としての尊厳を無視されていると恐怖を感じて、ユーラシアとアフリカでも強引に一帯一路を推進している。

米国もかつての世界的影響力が低下してきていることに尊厳をたもてなくなってきて、キリスト教右派も台頭。トランプのような自国優先で「反知性主義」のポピュリズムの大統領の選出にいたり。いまでは、中国を敵視し、中東の影響力を誇示しようとしている。

トムカリー問題も、同様だ。
一部の白人の中に確かに鬱積している差別意識、選民思想が黒人の力の前に脅かされているのでは、と、そこに恐怖感を思いこむ人たちにとっては、ちょっとした言葉も違って聞こえてくるものだ。メディアなどこれぞ幸いに反撃する口実を待っていたわけだ。

北朝鮮のミサイル問題もそうだ。中二病的「かまってちゃん」にすぎない。国として国家元首として満たされない承認欲求が根底にある。

ほとんどの場合、宗教右派の極右のファンダメンタリスト達が政治の主導権を握り始めていることから生じている。なぜそのような政治的動向が起こっているかというと、やはり根底にアイデンテティの問題がある。

冷戦も終わり、経済的安定をもとめて人は自由に行動し、移動する。自由を獲得すればするだけ、自己の満たされない欲求と社会的規範とのギャップに悩んでしまう。(参照:エンリッヒフロム「自由からの逃亡」)
自分の存在は何なのか、尊厳を傷つけられ、アイデンテティの問題に直面する。ルーツにもどることや、宗教や大きな組織に身を投じ、それに依存してしまうことで自己の平静さを保とうとする。

フランスなどに多いアラブ系移民2世達は、自由や希望を求めて移民してきた親世代の西洋化した生活のなかで成長し社会に出る、しかしそこでは社会的な壁に直面する。「自分はなにか」という問いに帰着し、それを救済するかのような過激組織に入り行動することで、心の安定を求める。

戸田・蕨の人質事件も同じ構図で語ることができる(擁護するつもりはまったくない)。かつて暴力団でブイブイいわせて肩で風を切って歩いていた男にとっては、病院や郵便局のちょっとした自分への扱い方にさえ、ふん満やるせなくなってしまう。しばらく使っていなかったピストルも持っている。86歳になるにあたり自制したり入自己を統一させるこことが限界になったのだろう。

社会や政治や組織が個人を個人として扱わず、十把ひとからげの集団として決めつけてしまうことが、尊厳を失わされ、過度な承認欲求を求めることになっている。一律の救済金や給付金だけでは虚しい。自分は個人としてここにいる、こういうことで困っているということを認めて欲しいのだ。

SMSの普及で簡単に承認欲求を解消できると思ってしまっているが、全く逆である。外食のメニューをインスタに上げてるうちはまだ良いが、反応がないと不安になる、返信がないと不安になる。加熱して、「いいね」を求め、依存状態から抜けられなくなっていく。エスカレートして迷惑行為までしてしまう。本当の自分を見失う。他人の言葉尻を攻撃する集団に参加するこで、あやまった社会的正義感で自分を満足させようとする。

これらの解決の道はどこにあるのか

エーリッヒフロムは、孤独を恐れず自分を見つめ、社会的自分でなく、本来の自分に立ち返り、自発的行動をすべきであると説き、それは「愛するということ」を学ぶことだという。「愛するということ」は技術であり、技術は修練によって獲得できるのだ。

ヘーゲルによれば「自由の相互承認」が必要だとなる。
弁証法では、「愛(主観的個人的)」のアンチテーゼが「法(客観的社会的)」でそれをアウフヘーベンすると「相互承認」になる。

いかに「法」で仕切ったとしても根底に「愛」がないとアウフヘーベンしない。

自分も相手も、一人ひとり違うし、様々な事情があり、感情もあり、思いもある。社会的な自分でなく、自己のなかの本音にも耳を傾け、相手のことも慮り、それにも思いを馳せる。自分も愛し、相手も愛することである。

ラグビーの「ノーサイドの精神」はここにある。選手たちだけでない、観客もみんなそうだ。たとえ負けたにしても、そこで自分達の負けを認める、仲間も個人の活躍を認める。個人のミスも認める。相手の強かったことを認める。良かったプレーを称賛する。嫌なこともあったかもしれない(ムモナンビも握手を受けとけばよかった)が、おたがいに肩をたたき合って認め合う。ビールを酌み交わす。自分を愛し、相手も愛し、なによりラグビーを愛する。

そこには「相互承認」がある。それが平和だ。

まずはお互いを知ろうとすることだ、わかり合おうとすることだ。普通の市民たちの個人レベルの草の根の交流こそが、国家や政治、外交、軍事の横暴を制御する。

参考文献
フランシスフクヤマ著 山田文訳「アイデンテティ」2019 朝日新聞出版
エーリッヒヒロム著 日高五郎訳「自由からの逃走」1961 東京創元社
山竹信ニ著 「「認められたい」の正体」2011講談社現代新書
Aホネット著 「承認をめぐる闘争」2003 法政大学出版局
集英社新書併修部編 「自由の危機」のなかの苫野一徳「自由な社会を先に勧める」の章 2021 集英社新書

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です