ラグビーを哲学する 構造主義 フーコー

「ラグビーを哲学する」のシリーズは、多くの哲学思想にラグビーを当てはめて考えようとする試みです。ラグビーの本質をよく知ることにもなりますが、同時に哲学のおさらいになり、普段の生活を見直してみることにもつながっていくかなと思っています。

ミッシェル フーコー

ミシェルフーコーは独特の風貌をしています、スキンヘッドに銀プチのメガネ、いつもタートルネックのセーターを好んで着ていました。ちょっと見はアイザックヘイズの様な風貌です。そこにいるだけでギラギラとしたセックスアピールを振りまいていますが、彼自身ゲイであり、未成年との性行為の愛好者であったということも伝わっています。そして1984年最後はエイズで死んだ最初の有名人の一人に数えられました。

その代表的著書である「狂気の歴史」「言葉と物」「知の考古学」「監獄の誕生 監視と処罰」、そして遺作となった「性の歴史」という題名を見ただけでも、恐ろしい様な近寄りがたいものを感じさせます。

フーコーはその思想や記述から3段階で語られることが多いですが、一貫して伝統的な理性への疑問を投げかけ、世の中で「真実」と言われるものが、その当時の権力の構造によって意図的に作られたものであることを暴きます。

自らが性的マイノリティであったことで、社会から阻害されてるという実感から、権力に対して過度に敏感な思想体系を生み出したとも言えるのではないかと思います。

フーコーは自分では構造主義者と呼ばれることを嫌っていた様ですが、レヴィ=ストロースよりも世の中の構造を問題にし、その実体や課題を明らかにしていると思います。

 

挑発的なフーコーの思想

「狂気の歴史」においては、狂気と正気の境目は曖昧にもかかわらず、ある時を境に時の為政者の都合で、線引きかがなされ、「狂気」が社会から隔離遠ざけられてしまうという歴史を明らかにします。中世ルネッサンス時代は、「狂気」はそれなりに社会の中でシャーマンや呪術師などとして役割を果たしていました。それが1650年ごろを境に、社会から隔離されて収容されるという様に変化します。その時代は「啓蒙の時代」、理性が幅を利かせはじめた時代に重なります。

 

「言葉と物」でのキーワードは「エピステーメー」です。歴史上のある時代をとりしきる知の枠組みを「エピステーメー」と呼びました。「歴史的にアプリオリ」なことであり、いわば知識構造を決めるメタ知識ということになります。エピステーメーは。ルネッサンス期には「類似、相似」。バロック時代からは「同一、相違の比較=合理主義」となり、近代は「人間」になり、現代になるとその「人間が消滅」すると言い切ります。200年前に知という創造主が人間(認識される客体でありながら認識する主体(=労働者で消費者)でもある)というものが発明されたが、その人間が消滅するというショッキングな表現をあえて使っています。それではどんなものかと言うと精神分析や構造言語学などで明らかになっていくのだとしてます。

「監獄の誕生」で権力は暴力的に力で押さえつける殺す権力から、近代になり、生かし、監視するといった、生権力として発動される様になった。そのきっかけになった、パノプティコンを取り上げ、現在に至る「生権力」の構造を明らかにします。パノプティコンは17世紀に現れた一望管理施設です。イギリス功利主義者のベンサムによって考案された、効率的な監獄です。真ん中に監視塔がありその周囲に何層にもなった独房が円形に並んでいる構造です。監視塔からは独房は丸見えなのですが、独房から監視塔の中で何が行われているのか見えない様になっています。この仕組みの中では、もはや監視員は常駐していなくても、いつ監視しているのかいないのかがわからない状態におかれているので、囚人は常に自発的に服従していると言う構造です。網走刑務所も似た様な構造になっています。囚人は肉体的苦痛でなく精神的苦痛を受けるものになります。

「知の考古学」
「知の考古学」を提唱します。既存の学問は体系の中で捉えていくのだが、考古学の様に、ランダムに様々な知の体系の言説にアクセスして、系譜としての事実を集めて、断層や関係性などを明らかにしていく手法です。

 

 

体育会系ラグビー部のパノプティコン

パノプティコンでまず最初に思い浮かぶのが、昔の体育会系ラグビー部の土のグランドのセンターライン際立つ「ヤグラ」です。グランド全体を見舞わせて、そこに監督や部長がずっと座っており、ほとんどがなぜかサングラスを賭け、視線が分からない様になっていますし、グランド内の選手からがみているのかみていないのか、寝ているのかわからいという状態におかれます。みていないのかと思って練習の手を抜くとハンドマイクを通して罰走の指令の怒号が飛んできます。そういった暴力権力の発動はまれなのですが、見られてるかいないかわからいという状況に置かれることは肉体的圧力でなく精神的な圧力になります。まさに「ヤグラ」の仕組みはパノプティコンとして機能していました。

それが今はトップレベルではGPSに変わっています。移動距離、移動の軌跡から、走る際の初速、加速度まで完全にデータとして記録されます。
そのデータから、科学的に最適な練習メニューが納得した上で落とし込まれます。これも暴力的権力ではなく、「生権力」としての権力の発動に他なりません。

昔の体育会系ラグビー部の「権力の構造」としては「ヤグラ」はほんの一部に過ぎません。多くの権力の構造は。上下関係、先輩と後輩、OB会の存在、などです。OBや先輩が可愛がられるコトで、就職から仕事上(受発注)の優遇、出世から結婚など、マイホームの世話から、子供の受験、最後は葬式の段取りまで、世話を行うという「生権力」の構造が成り立っていたのです。こういった構造の中に入ってしまえば将来は安泰なのでなんでも先輩、OBの言うことに逆らわずに生きていくことが、重要になるのです。今考えれば、これは「エピステーメー」です。

その中でまともな受け答えをしたり、反発したりする異質な者は出現しにくくなりますが、たとえ出現しても、「狂気」とされ容赦無く隔離阻害され、排除されます。輪の外に放り出されたものは二度とその輪に復帰することは叶いません。

この構造は従順で強靭な24時間働くサラリーマンを生み出し、右肩上がりの高度成長時代は成り立っていました。しかし、今や先の見通せない時代で、OBや先輩の力も及ばない世の中になり、その力は弱まってはきています。しかし世の中には時代錯誤の権力を振りかざす輩や妖怪はまだ生き残っています。

生権力と日本のコロナ禍対策

今回のコロナ禍は「生権力」としての政治を考え直すきっかけになりました。
欧米では都市のブロック化や法律の規制による罰則や強化によってコロナを封じ込める作戦が取られました。中国では中央集権国家権力の強制力で瞬く間にコロナを封じ込めました。がしかし日本では、その様な法により法律や行政罰に強権は発動されず、もっぱら周囲の目や同調圧力に任せた対応に終始しました。フーコーの言う「見る見られる」と言うことが社会の中に浸透しているからです。ですから街を歩いている人のマスク姿はどの国よりも完璧です。しかし、見えないところでの夜の宴会や接待は確実に行われており、何度もくる感染拡大の波は抑えることができていません。
確かに、日本の同調圧力の力は強力で、「自粛警察」が大量に自然発生します。ネットの書き込みの暴力は凄まじいです。この様な日本の同調圧力がどうして生まれ育ってきているのかを紐解くことも必要だとは思いますが、大きな分断やギャップを作らずにグラデーションをつけた小さなギャップがたくさんあるモザイクな格差社会が形成されているのは事実でしょう。上を見て不満はあっても、自分よりちょっと劣った者を見てはばかにし、非難し差別し、心を安定、安心させるといった構造社会が完成できています。これは為政者にとっては都合よく「狂気」も出にく、変革も起こりにくい構造になります。一方で無個性で 息苦しい社会になってしまっています。欧米では貧富の差、宗教、教育の差などで社会の分断が生じているのとは日本の格差はちょっと違います。

オリンピックの開催についても同様です。日本ではオリンピックに反対する意見が目立ては、それに飛びつき同調するものが増えてきて、マスコミやTVのワイドショーのひな壇の意見に簡単に左右されてしまいます。オリンピックの理念や開催の意義を論じられる様な人材が全く現れてきません。これはオリンピックが行き過ぎた資本主義の中で金儲けや政治の道具と化してしまっているという「見切り」がつけられた、しかし実際に無観客の中でメダル獲得競争が始まれば、メディアは掌を返した様にそれに同調する様になるのは火を見るより明らかです。

こんな時に少し昔なら知識人や作家の様な「思想家」が論壇に登場し「ご意見番」の発言があり議論がなされたはずのですが、今の世の中氾濫する多くのメディアの中に埋もれてしまっていて議論にすらなりません。異質な者を排除する社会構造、まさにここに極まれりです。