大学ラグビーとは その2 問題点論点の整理

大学ラグビーのあり方

帝京大学のような結果が出てくると、大学ラグビーのあり方について、さまざまな議論が出てきて当然だと願います。

 

1,実力格差問題(興行面、安全面)

ファンは正直です。100点ゲームなどが続くと、かつての日本選手権のようにファンの足は遠のいてしまいす。興行面で意味があるのかは問われます。NHKが放送権を持っていることなども問題になります。

それ以上に、実力、体格の差が出てしまうと、安全面での問題があります。180cm100キロを超える肉体と衝突する衝撃は凄まじいです。普通の大学ではそのような「怪物(差別ではないです褒め言葉です)」は2−3人です。帝京は23人全員が「怪物」です。

怪我をした早稲田長嶋くんが心配です

安全面から帝京との対戦を勇気を持って辞退する学校が出てくるほうが、自然な流れに感じます。

2,すべて科学万能主義でよいのか

帝京ラグビーは完全な理にかなった科学万能ラグビーと言えます。

科学万能主義は、自然主義=唯物論=決定論となり、ついては人間の自由意志を否定してしまうのではないか?この議論はシンギュラリティやAIをめぐる哲学論的議論にまでいきつきます。

藤島大さんによると、早稲田の伴一憲先生は、かつての名将大西鐡之祐を
「ラグビーに科学を持ちこみ、科学ラグビーにさらに宗教的なものを持ち込んだ」(うろ覚えです)と称しましたが、精神的な面の存在や、偶然性などを最後まで信じていた人でした。

精神性や人間性と、科学との折り合いをどうしていくのかが課題です。

哲学者のマルクスガブリエルは「科学万能主義は宗教の一つでしかない」とまで言い切っています。

科学論のほうも最新の量子力学では、偶然性や確率論的なふるまいを根本としていて、決定論から距離をおいてきています。

その他にも、科学万能は、レフリングにおけるテクノロジーの使い方=TMOの使い方なども問題にもなっていきます。これはラグビーに限らず、スポーツ全般にかかわる課題になっています。どこまで厳密に判定すればよいのでしょうか?

3,選手は科学的ラグビーの実験材料では無いのか

上記の議論は、際限なく広がりすぎてしまうので、もう少し単純化するとこの議論になります。

「いやいや、帝京大学の卒業生は周りに気を配って謙虚な立派な青年になっているのだからそんなことはないし、今の日本代表を見てもそれもあきらかでしょう」という反論が当然出てくるでしょう。

それもそうなんですが、選手からはデータや自由などが、大きな組織に「搾取」され、選手はなんらかの人間性から「疎外」されているのではないかという心配がでてきます。

3,結局金がある組織(学校)が勝つだけではないのか問題

この問は、だれもが行き過ぎているのではないか感じている現代の資本主義の是非をめぐる問題に発展していきます。欲にからめた金儲け投機はすでに仮想空間メタバースまでおよんでいます。

強いところがますます強くなり「格差」が広がることをどう考えるのか=金が金を生む、一部の金持ちが富を独占してしまう現状をどう考えるかです。

富の再分配という事をどう考えるのか、公平性をどう保つのか、ドラフト制などをどうするのかなどの議論になります。

そして、根本的には、学生ナンバー1にどれだけの価値があるのか?さらにそこからは、「本当の幸せってなんなんだろうか」、単にトップになれば幸せなのかという「幸福論」の議論にも発展します。

 

4,大学選手権のフォーマットを見直す議論

上記の学生ナンバー1にどれだけの価値があるのかという議論は、大学選手権のフォーマットをどうするのかという眼の前の問題に還元されます。

「そもそも論」からの見直しの議論になっていきます。

そもそも、大学選手権の最初は、東西対抗でした。1925年から63年まで続きました。西と東のトップが当たる大会です。64年から大学選手権となりました。

ラグビーというスポーツは、というより、スポーツは「そもそも」NO1を決めるものではありませんでした。

そもそもラグビーはNO1を決めるのではなく、どちらが強いかを決めるもの=チャンピオンベルトのようなものを取りあうものでありました。

いまでも、世界で見れば、ブロディースローカップ、カルカッタカップ、オックスブリッジ、など対抗戦の歴史は続いています。日本ラグビーでも、東大ー京大戦などの伝統の対抗戦も続いています。

全米でも新年のアメフトのビッグゲーム、ローズ・ボウル、シュガーボウル、オレンジボウルなどの大会は2014年までは、すべて招待試合でありました。(2014年からは全米NO1を決める大会の準決勝のゲームに変更)

5,「脱体育会系」の進展状況の課題

帝京大学ラグビー部は4年制が1年生の面倒をみるなど、完全に脱体育会系の運営になっています。この逆転の組織にするには多くの壁を壊していく必要があったのではないかと察します。

昭和の日本列島は、右肩上がり、イケイケドンドンで突き進んでいた時代がありました。そのその時代では、上下関係の組織で24時間働ける、脳みそ筋肉の体育界系の人材がもてはやされました。

いまやすでに体育会系など「死語」になっていると思われます。

しかし、建前では、多くの組織で脱体育会系が進んでいるはずなのに、まだまだ根強くいろいろなところに残っいるのも現状です。

この問は「体育会系」の上下組織がなぜまだ根強くのこっているのか?という問題ですが、これを突き詰めると、上下関係など日本の組織論、日本の社会論文化論にまで発展します。

「個人と社会」、「コミュニティと世間」、「贈与と報酬」、「恥と罪」、「同調圧力」、「責任と自由意志」などにも発展してきます。

One Reply to “大学ラグビーとは その2 問題点論点の整理”

  1. 論理的かつ、ラグビーの未来を考える建設的な論理構成で納得できます。現代の資本主義論にも及び、ラグビーが提起する様々な話題の幅広さを改めて感じます。日々努力と研究を重ねて強くなってきた帝京は立派ですが、もう勝敗結果はほぼ動かないマッチメイクだと、帝京ファン以外に観戦しなくなるかも(笑)早稲田も明治も強さと共にもつ“弱点”がチームカラーです。

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