オリパラの行方 その3 オリンピックの理念

オリンピックの是非

オリンピックは最初には崇高な理念がある。

オリンピック憲章の基本原則2には

オリンピズムの目的は、 人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、 人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである。

同じくオリンピック憲章基本原則4にはこうある

オリンピック ・ ムーブメントにおけるスポーツ団体は、 スポーツが社会の枠組みの中で営まれ ることを理解し、 政治的に中立でなければならない。

しかし、オリンピックはその崇高な理念に反する形で、理解、利用されてきた苦い歴史がある。政治的に、ナショナリズムの向上、経済的発展のため、イデオロギー論争のため、代替戦争としての面、国際的地位の認知のためなどである。

ナチスドイツは、ナショナリズムの高揚にベルリンオリンピックを使った。 聖火リレーを始めたのもヒットラーである。ロスオリンピックは資本主義の誇示のため高額なお金を動かすために使われた。前の東京オリンピックは、高度経済成長を加速させるために使われた。冷戦時代には米ソの代理戦争の様な様相も見せている。そもそものオリンピックの持つアマチュア主義は、裕福な特権階級の地位の保全という意味があったことも否めない。

今回の東京オリンピックパラリンピックの開催にあたっては、その開催の理解を得るために様々な嘘や聞こえの良い美辞麗句が並べたれられた。裏では一部の利権や特権や政治的主導権争い、旧態依然とした各種協会体質の維持などの目的、などが渦巻いているにもかかわらずであった。
反対側は、最初は経済的負担などわかりやすい論理だけで論破しようとした。さらに反対意見に好都合なのは、次から次へと出てくる、不正や倫理上の問題である。反対するに値する論拠の数には暇がない。
この論拠は全て、オリンピックをその根本理念とは別に、好都合に解釈し利用しようとしている個人や団体が内包していた事柄である。

そして決定打は世界的なコロナ感染拡大である。反対派の声が大きくなるのも当然である。

しかし考えてみれば、オリンピック開催に反対の論理これらは、オリンピック開催による副次的な利権、期待効果に対しての反対でしかないと思われる。

そもそものオリンピック開催の意義がどこにあるのかの根本に立ち返っての議論がなされていない。開催に賛成の側としても「コロナの中だからこそオリンピックをやる意義」を打ち出せないといけない。

「社会の中にオリンピックがある」という立場は理解できる。世界各地のコロナの惨状を見れば、そんなお祭り騒ぎをする様な社会状況ではないと言えるはずである。一方でオリンピックの理念は「社会を良い方向に変えること」にあったはずでもなかっただろうか。コロナ禍は、コロナという疫病だけはなく、世界中の人の持つ夢や希望を破壊し、多くの人の心の健全性も蝕んでいる。それは、社会の分断を引き起こし、ついに、世界各地でアジア系の人々への差別や暴力となって現れ始めてしまった。

「より良い社会」が何かについては様々な意見があると思う。ある人は経済的発展だけを考えるのかもしれない。しかし、筆者には相互理解が進み、少なくとも分断が少なくなる様な方向に向く社会をイメージする。壁を取り除くのは壁の向こう側に友人を作ることである。サンテグジュベリの「星の王子さま」に寄れば「友達になるのは飼い慣らすこと」だという。ちょっとおかしな表現だが、お互いに相手の立場になって理解しようとして少し我慢することとされる。完全に理解することなどできるわけがない。しかし理解しようとすることは誰でもできる。

オリンピックパラリンピックが、壁の向こうに友を作るきっかけとなり、様々な国や地域や、民族や宗教、世代間の溝、障害のある無しや、性別や、性的マイノリティーの立場や思いなどを理解しようとするきっかけになれなければならない。

経済発展や政治的主導権争いなど様々な二次的な利点が無くとも、いやその二次的なベネフィットが期待できないことによって、よりオリパラは純粋になることができる。より本質の理念に立ち返ることができる。様々な問題があっても、例えコロナの最中であっても、開催の価値があるのではないかと思う。開催するのであればそれだけの覚悟がなければならない。

 

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