ラグビーを哲学する スピノザ「エチカ」から その3

「ラグビーを哲学する」のシリーズは、多くの哲学思想にラグビーを当てはめて考えようとする試みです。ラグビーの本質をよく知ることにもなりますが、同時に哲学のおさらいになり、普段の生活を見直してみることにもつながっていくかなと思っています。

スピノザエチカからその3

能動的と受動的、自由とは

スピノザは、自由とは「制約条件の中で、その力を十分に発揮できること」、と考えます。制約条件のない全くの自由など存在しません。魚は水の中にいるという制限の中で力を発揮できることであり、水から外に出られることが自由ではないと考えるのです。

ラグビーの自由なプレーも様々な制約条件(オフサイド、前にボールは投げられない)などがあるということでとてもスピノザ的です。

スピノザは、神即自然の考で、全ては神の現れであると考えるので、全ての現象にはその原因があると考えます。すなわち、人に完全な自由意志はありません。自由な言動をしていると感じても、その言動にも必ず何か原因があるということなのです。ただ、人の意識の能力には全ての原因となることを把握できないので、意識の部分で自分に自由な意思があると考えてしまっているのです。

スピノザは自分が何かの原因になる様に働き、その様に自分の力が発揮されることを能動的と言い、外からの力で決めさせてされたり、動かされたりすることを受動的と呼びます。

そして、自分で決めていくと言う能動的自由を多くしていくことが、自由と感じられ、喜びであり、、「小さな完全体」から「より大きな完全体」に生まれ変わる、そうすることで賢人に近づけます。賢人は知識や能力だけでなく、音楽やスポーツなどの楽しみの楽しみ方も身につけている人だと考えます。
賢人になるには周囲の刺激をうまくいけ止めることが必要になります。それを実現するのは実験を繰り返す学びとそれを可能とさせるゆとりにあると明言します。

パナソニックのラグビーはディフェンスからの切り返しです。相手に攻めさせて、その中でチャンスを見つけて一気に逆襲するというスタイルです。
相手チームは自分の意思での能動的に攻めているように見えますが、実はパナソニックの力でに受動的に攻めさせられてるという状態になり、決して自由ではありません。

ボールのコナトゥスは

ラグビーで重要なのはボールを活かし続けることです。すなわち、ボールの「コトゥス」を増伸させるように行動することに他なりません。

これが、ラグビーで大切な「継続」です。反則やノックオンでボールを相手に渡してしまうと、ボールのコナトゥスは下がってしまいます。逆に継続して、コナトゥスが増大する様な位置、例えば、開いたスペースに運ぶとか、ディフェンスとのミスマッチを作り出すことで、コナトゥスは上がります。

しかし、人は、判断を間違えたり、ハンドリングエラーをしたりしてしまいます。風やグランド状況で予測外のことになってしまったりするのがラグビーです。そんなとにに自分を悔やむのではなく、すべて神=自然の法則であり、起きたことを素直に受け入れて次のプレーに備えなかればなりません。そうすることでラグビーの神に近づくのではないかと思います

 

自動販売機でものを買うことから、進学や就職を決めること、結婚まで、現代は様々なことが自分で自由に決められると思いがちです。自分で決めたことは自分で責任を負うしかありません。自己責任論です。現代社会はこの自己責任論が正論であるとされてしまっています。これに押しつぶされていないでしょうか。これがストレスになり、依存症などの問題になっているのではないでしょうか。アルコールや薬物、ゲーム、ギャンブルなど、依存症は自分の意思の問題とされていますが、実は外部にその原因があるのです。そこもまでもいかなくても、ほとんどの人はスマホの依存症になっていませんか。いいねの数が判断基準になっていませんか

学ぶということは本質を掴むことですが、スピノザの

スピノザのいう真理とは

これが正しいということの判断基準は真理その中にありと考えます。外にあるとすると、その判断基準がの正しさの基準を他に探すことになり、その基準が見つかっても基準が正しいことの基準が別に必要になり、どんどん広がって帰結できなくなってしまいます。

スピノザの真理とは真理に出会った時に真理自体が正しいとはたらきかけてくるものだと言います。

真理に出会った時にわかる真理とは、考えてみれば、よくあることです。

例えば自転車に初めて乗れた時、自転車の乗り方については理屈では様々な知っているつもでも、実際に乗れた時に「これが正しい」と認識できます。泳ぎを覚えた時も同じです。ラグビーでも初めてタックルができた時、これが正しいタックルだと初めて認識できるのではないでしょうか、それまでどれだけコーチが説明してもわからないことが、できてしまうと納得できます。

運動能力だけではありません。例えば物理の理論など自然科学分野でも良いし、政治や経済の学説などでもそうです。さらに宗教や哲学(例えば今論じているスピノザの考えかた)でも同じです。その時私たちの自由(=能動的な範囲)は少しだけ広がるのです。

文学や芸術でも同じです。
若い頃に読んだ小説や見た映画なども、その時は面白さがわからなくても、後になって見返してみるとその本当の面白さが理解できたりします。(NHK100分で名著では小津安二郎の映画が例に出ていました)。これは自分自身が成長したことによって真理に近づいたことに他なりません。
スピノザの真理は成長を伴うのです。

ラグビーでもどれだけ実践形式の練習をしていても、初めてゲームに出た時に、「これがラグビー何だ」と初めてわかるものです。ラグビー観戦でも同じです。何回も重ねて観戦するうちに、違った見方が出てきてどんなゲームの観戦の楽しみ方も変わってきます。

スピノザの真理は、真理かどうかを客観的に共有する手段は難しくなります。スピノザはそれでもよしと考えます。

現在社会では、スピノザと違って、デカルトの真理感が元になっています。デカルトの真理とは、法本論的懐疑余地の明晰なことが真実であると考え、それを前提として、積み上げるので科学技術の発展に繋がって今日があるのです。結構合理的です。スピノザの真理感ではこういかなったでしょう。

しかし、学校の教育や試験が、知識の詰め込みで、ただ単に教科書に書いてあることを何の疑いもなく真理としてしまい、先に答えを探し、それを覚えるだけになっていないでしょうか。ラグビーもそうです。理論や定石や監督の指示をうもにみしてその再現を上手にするチームになっていないでしょうか、実はこれでテストでもラグビーでの高得点が取れます。
そんなことで社会やビジネスや人間関係なんかでも、ネットでのおすすめ、ハウツー本を鵜呑みにしたマニアル人間が多くなってている様に思えます。危機感を覚えます。

スピノザその1 スピノザその2

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です