WRC2023フランス大会 妄想未来日記 (後編その2)

10月9日 モンサンミッシェルからパリへ

決戦の次の日、この日でナントをあとにし、花の都パリへと向かう。

部屋の掃除、折り鶴と礼文は忘れずおいておくことにしよう。3泊してもう顔なじみになったオーナーやビジター達ともお別れだ。日本から持ってきたお土産品(実はすべてダイソーで購入)がまだあるのでプレゼントすることにする。

途中、世界遺産のモンサンミッシェルに立ち寄る、駐車場から専用のバスに乗り換えて行く。潮の満干期が激しく、大潮の満潮時は完全に島になる。
潮のみちひきは月の引力の関係で起こる、新月と満月のときは太陽の引力も関係するのでその差が大きくなり、大潮となる。10月2日なら満潮が13,4m引き潮が0,3mでその差は実に13mもあったという。日本では大潮の際でも4mくらいの高低差だからものすごい差となる。10月9日は残念ながらそれほどの差はなさそうだ、うまく海に浮かぶ姿が見えるかどうかは微妙だ。
大天使ミカエルの啓示があり、岩山に教会を立てたところ大津波がやってきて、陸からとりのこされたという伝説あり、古くから巡礼者が訪れるようになったというしかし、潮の道引きが激しく、巡礼者が溺れる死ぬことが多かったということだ。

大天使ミカエルはといえば悪魔との最終決戦に一人で挑む姿の絵を思い出す。堕天使=悪魔をやっつける「反逆天使の転落」作ブリューゲル父。

 

 

 

 

 

 

 

ジャパンの今後の活躍を大天使ミカエルに祈りとして捧げよう。

100年戦争の中盤以降、ここは軍事拠点としても使われた。佐藤憲一の小説「双頭の鷲」の主人公、お下劣で破天荒な策士ルゲクラン将軍がこの主であった。泣くこ子も黙るというゲクラン人形はまだ売っているであろうか。
そういえば、100年戦争の最終局面で、ドンレミ村ジャンヌ・ダルクに「オルレアンを救え」と囁いたのも大天使ミカエルということになっている。

年間300万人の観光客のおかげて、潮流が変わり砂が体積して景観がかわるという問題が発生し、大規模な緊急工事が行われていた。オーバーツーリズムと環境保全の問題は深刻である。日本でも富士登山がインバウンドの中で流行し、観光客が殺到し、ケーブルカーを設置しようなどという案も上がっていて問題になっている。

ここの名物というだけでバカ高い値段のするオムレツはいかがなものか。経験の一つとして話の一つとしてやっぱり食べてみるしかないかもしれない。そんな輩が多いから、こうやって値段がつり上がってボロ儲けしているのだろう。

ここも完全にノーテンキなお上りさんの行き着く先になっている。パリからも多くの観光客が押し寄せてるようだ。そんな中、そのような輩達とのんきに観光するのは、気はづかしいし、少し気まづい。

ともかくこの日は17時半には友人のOをシャルル・ド・ゴールへ送り届けなければならない。
ノルマンディ地区で訪れたいところは他にもたくさんあったのだが、今回は体力と気力が追いつかないので諦めることにする

候補
1)「バイユーのタペストリー」ノルマンコンクエストを今に伝える70mの刺繍作品。
2)史上最大の作戦、ノルマンディの上陸地点。最大の被害者の出たカンの街
3)ルーアン  晩年のマネの描いた大聖堂ジャンヌダルクの最後の地
4)エトルタ アルセーヌルパンの「奇巌城」の舞台、モネなど印象派画家の題材

シャルル・ド・ゴールへOを送り届けたら、パリ市内にもどってホテルにチェッイン。今度も世界チェーンのIBISのの安ホテル。場所はモンマルトルの北である。この辺はあまり治安が良くない。

もう夜の7時だがまだまだ外は明るい。少し肌寒いが、そろそろ明かりの灯り始めるモンマルトル界隈を散策するとしよう。洗濯船跡ロートレックユトリロらのアトリエがあった場所なども確認に、最後はモンマルトルサクレクール寺院から夜景のパリの風景を楽しむ。遠くにエッフェル塔の灯が見える。

ここのサクレクールの丘は、紀元前から元々ケルトのドイルドであった。宣教師のドニがキリスト教を布教しようとしたが、地元の反発を食らって、この地で処刑された。しかし、ドニは首を切られても生きていて、その自分の首を胸に抱えて北に向かって歩き出したという。その間も胸に抱えた首からが道端の人々に布教の説教を発し続けた。その距離7Km以上。しかし、ついに力尽きて倒れてしまう。ドニは殉教者として聖ドニとなり、その地に信者達は教会を立てた。。その教会こそが、現在のサンドニの大聖堂。そのサンドニはワールドカップの準々決勝から決勝がまでが行われる街である。

サクレクール寺院の歴史は浅い。完成は1914年のことである。建造の目的は、第三共和政の時代、政府によるパリ・コミューンの惨劇の鎮魂の目的だった。しかし、パリ万博の際に建造された革新的なパリの象徴エッフェル塔に対抗する象徴ともなった。

そこから丘をくだって、クリッシー広場のほうまで足を向ければ、そこが赤い風車ムーランルージュがある。そこから北に道を辿って映画アメリのカフェで一休み。

ホテルまで30分の散歩で帰る

 

10月10日 パリ市内一日観光 革命の聖地散策

この日はパリの一日観光だが、この日は火曜日でありルーブルは閉まっている。

実はこれまでパリは何度かおとづれたが、あまり、観光というものをしたことがない。付き合いで主要な観光地を案内して終わってしまって、行きたいところに行けた試しがない。
パリが私の性に合わないのは、アウェイ感を感じてしまうからだ。パリの街並みの美しさと圧倒的な歴史の重み、気品やおしゃれな空気感に圧倒され、自分がどう隠してもお上りさんで田舎者であるということを暴かれてしまい、よそ者として気後れし、疎外感と敗北感を味わうことになってしまう。
ほんとうはパリで何ヶ月も生活することで、パリジャンの一員になること、そうでなくてもゆったりのんびり散策するのが一番なのだ。しかし、今回もどうしても貧乏根性が頭をもたげてきて、せわしく忙しい行動になってしまう。今回の訪問もまたしても完全な敗北に終わりそうだ。

今回の私のパリ訪問の狙いは、革命の痕跡をたどることだ。バスティーユ襲撃から始まった革命が思い浮かぶが、ドラクロアの絵にある7月革命レ・ミゼラブルのクライマックスの6月暴動のバリケードがあった場所、パリ・コミューンの最後の地であるペールラシューヌ墓地。そして芸術の分野でも、印象派革命、ピカソ達よるキュビズム革命があったモンマルトル周辺。68年の学生たちの5月革命もある。ナポレオン3世によるパリ大改造も革命といえば革命である。豪華絢爛な「オペラ座」よりは、シャンソンに革命をもたらしたエディッドピアフや音楽界に革命をもたらしたビートルズなどが出演した「オランピア劇場」にも行ってみたい。
できれば車でベルサイユまで行って、宮殿はオマケでいいので「球技場の誓い」の現場は欠かせない。

日程別その6 10日から11日

10月11日 フランス最終日、ルーブルからオランジュリーを経てジベルニーへ

朝起きたら部屋を片付け、最後の荷造りだ。大きな荷物はカウンターに預け、車も駐車場においたままで、メトロに乗って、ルーブルに直行する。

この日が最終日だが、最終日になってやっとルーブルへ行ける。
今度こそモナリザ、ニケ、ミロで終わるような敗北感を感じないようにしたい。

目的を持っていくことが重要だ。今回は特に「ルネッサンス」と「北方ルネッサンス」から「マニエニズム」。そして「バロック」「フォンテーヌブロー」、「新古典主義」までのそれぞれのエポックメイキングな絵画の実物をじっくり確認したい。

ルネッサンスといえば、レオナルドであろう。「洗礼者ヨハネ」「岩窟の聖母」、そして「ジョコンダ=モナリザ」だ。北方ルネッサンスでは油絵を発明したと言われるファンヤンエイクの精密な「宰相ニコラロランの聖母」を見逃せない。キャンバスがこんなに小さいとは驚きだ。

ダビッドの「ナポレオンの戴冠」ジェリコーの「筏の絵」ドラクロアの「7月革命」の絵はどれもバカでかいので圧倒されるが、現物を見るしか分からないない細かいところを確認する。
ルーブルで一番大きな絵「カナの婚礼」も同様である

中野京子「怖い絵」で有名になった「いかさま師」や「女占い師」も現物を確認する。

ルーブルのあとは徒歩でオランジュリーへ行く。
もちろんモネの睡蓮をみるためであり、そのあとその足でジベルニーへと向かうからだ。モネが晩年睡蓮にこだわるのは、貧乏だった頃苦労をかけた最初の奥さんカミーユを亡くしてしまったからではないかと妄想する。東洋が趣味のモネは蓮の池に極楽浄土を重ねたのに違いない。

ジベルニーからはシャルル・ド・ゴールへ直行する。早めにチェックインして、空港内の店でゆっくり夕食をとる

 

10月12日 シンガポール再訪

チャンギ空港当到着は3時半ごろになる
そこからまた場外時間をすごすので、往路同様シンガポールの無料市内ツアーに参加する。
往路でのツアーと違ったルートになっているところが嬉しい。

ツアーから帰ったらシャワーを浴びて、時間まで仮眠室で仮眠をとる。

10月13日 午後羽田帰着

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