WRC2023フランス大会 妄想未来日記 (後編その1)

10月6日 ナントへの大移動

この日はこのツアー最大の長距離ドライブが待っている。

この日リヨンを出て、ジャパン対アルゼンチンの決戦の地、ナントへとむかう。広い広いフランス国土。南東にあるリヨンから、北西の大西洋岸のナントで走行距離700Km。覚悟が必要だ。でもそこは途中休憩や観光をしながら、のんびりと行きたい。夜は特に予定もない。夜までに宿につきさえすれば良い。

8時半にリヨンを出発。リヨンから2時間のドライブで山を越えれば、そこはラグビーマッド地帯のひとつ、クレルモンだ。11世紀の末この地で行われた公会議で時の教皇ウルバヌス2世による、悪名高き十字軍遠征の呼びかけが行われた。そんなことよりラグビーファンならここはTOP14の古豪、松島幸太朗の所属したクレルモンオーベルニュだろう。ここクレルモンフランは一度だけおとずれたことがある。仕事で現地の営業担当につれられてわけも分からず降り立ったところがこの地だった。黄色のミシュランとボルビックの街だ。

まだ余裕がある、高速をおりて、スタジアムやクラブハウスを訪ねてみることにする。黄色いクレルモンのジャージもほしいところだが、なんでこんな値段なんだろう。写真だけにして購入は諦める。

クレルモンからA71を北に走れば、14時ごろには、ロワール川の古城地帯の到着する。16時ごろまでフランスの歴史ロマンにひたりタップり古城観光と決めももう。
シュノンソー城は、フランスでも最も美しい城の一つとされる。森の中で水路や池に囲まれたこの城はたしかに美しい。アンリ2世は年上の愛妾ディアンヌにベッタリでこの城をそっくりそのまま彼女にプレゼントした。本妻のメアリードメディシスは虐げられていて苦しい時を過ごしていた。しかし事件が起こる。馬上試合でアンリ2世が目に槍を受けて事故死する。愛妾の身分は儚く脆い。嫉妬と憎悪に燃えるメアリーはこの城を真っ先に取り上げ。ディアンヌを追放した。競うように作った2人の庭園が女の争いを物語っている。

次に訪れる、アンボワーズ城は、そのアンリ2世の祖父シャルル8世が作らせたが、工事の最中にこの鴨居に頭をぶつけて死亡。その息子フランソワ1世に引き継がれて完成した。実はこのフランソワ1世は2mを超える長身であって、ラグビー選手なら絶対にロック。(しかも、レスリングも得意イングランドのヘンリー8世にレスリングで勝ったことがある)。親父と違ってよく鴨居に頭をぶつけなかったものだ。

イタリア大好きのフランソワ1世の肝いりでここアンボワーズがフランスルネサンスの総元となる。ミラノからレオナルドダビンチを呼び寄せ近くのクロリュセ城に住まわせる。秘密の地下通路で毎晩のように科学や芸術談義をした。新しい都市計画を構想した。
レオナルドダビンチは単なる画家ではなく様々な顔をもつ。一番才能を発揮したのが「軍事顧問」だ。現在に生きていて、ラグビーの監督をやらせたらどんな作戦を考えだしただろうか?

スランソワ1世は、息子のアンリ2世にフィレンツェ、メディチ家のメアリーを娶らせた。孫たちに加え、スコットランドの幼いメアリー・スチワート女王もここで跡取りの孫フランソワ二世の許嫁(いいなずけ)として育った。

しかし、幸せは続かない。まず跡取りのフランソワ(同じ名前)がテニスの試合中に謎の死を告げ、高齢のレオナルドも死亡、本人もスペイン遠征で死去、するとあらゆる計画が頓挫する。そして王位を継いだ長男のフランソワ2世も謎のできもの」ができて死亡、若くして後家になったメアリーはスコットランドに帰還(その後彼女はスコットランドとイングランドを股にかけ大騒動を起こすことになる)、次男のアンリ2世が馬上試合の事故で亡くなる。その後お政治は後家のメアリーのそのか弱い肩に任される。
そうなると、欲にまみれたカソリックのギーズ家カルバン=ユグノーのブルモン家の骨肉の勢力争い、血みどろのユグノー戦争が勃発する。

最後は、パリでの大惨劇サンバルテルミーの虐殺」(高校の時の世界史ではには「聖バーソミローの虐殺」だった)に至るのだが、この地ではそのようにエスカレートしてしまうきっかけとなるアンボワーズ事件がおこったのだ。それはこういうものだった。王太子の拉致事件が未然に発覚し、首謀者と疑われたユグノー達は次々に処刑され、その数数百名。そして、この美しい城の窓という窓の全てに無惨にも吊るされたのだ。死臭は川の向こうまでとどいたという。10歳だったシャルル9世、その有様を強制的に見せられ、王位につく前から心身を病んでしまい、サン・バルテルミーの虐殺のあと、最後は若くして発狂死することになる。

そんな血なまぐさい歴史があったアンボワーズ城だが、今はただたんに美しく気品にあふれている。

歴史ロマンに浸り過ぎてしまった。
アンボーワーズかナントまでは、3時間あまり、もう目と鼻の先である。

決戦のスタジアムスタッドレボジョワールの徒歩圏内近くの川沿いのボートハウスが私達のナントの拠点となる。ここに都合3泊することとなる。

ナントといえばこれも宗教戦争のところで世界史で教わった「ナント勅令」で有名だ。サンバルテルミ虐殺の時に妖女マルゴーと形だけの政略結婚を果たしたアンリ4世がその後王位につき、改宗をしてから信教の自由を認めたのだ。この改宗は「宙返り」と言われる。大江健三郎の宗教がらみの晩年の小説もこの名からつけられた。

10月7日 ウェールズ ジョージア戦

この日のメインは、ウェールズとジョージアの一戦になる。
この日までC組の状況がどうなっているかは全く予想できなかった。(フィジーがオーストラリア、ウェールズを破りすでにプールステージ突破を果たしているかもしれない。)今回はウェールズを応援する。昨日店のスーパーでウェールズの応援グッズ西洋ネキ(リーキ)は購入済みである(4年前はリーキは日本で売っていなく日本のネギで代用した)。レッドドラゴンの旗も持ってきた。
ウェールズのサポーターと、「カロラン」や「ブレッドオブヘブン」を歌い、スタジアム内では「ランドオブマイファーザース」を大合唱して盛り上がる。カタカナで歌える歌詞カードは印刷してきた。4年前の飛田給は味スタのときもそうだった。私がブレッドオブヘブンを歌い出すと、ウェールズ人の高齢の爺さんが突然3度上でハモッって歌に加わってきた。その後歌う人が増えてきて最後は10人以上の大合唱になったのだ。トム・ジョーンズを始めとする名シンガーを排出したウェールズ、皆歌がうまい。発声法から違っている。

一方のジョージアのマイナー調の国歌も大好きだ。タヴィスレバは自由という意味である。

ゲームの方調子の出なかったウェールズが、ダンビガーのペナルティゴールが次つに決まる。スクラムも互角だ。さいごまでわからない緊迫した勝負になる。

おっとここで調子こいて飲みすぎてはいけない。この日はこのあともまだまだお楽しみが待っている。

終了後はウェールズファンに囲まれて、一緒に歌を歌いながらトラムに乗って街のラグビービレッジの会場にむかう、彼らは勝っても負けても大合唱になる。

その会場はロワール川の中洲にある、ここには機械仕掛けの巨大な象が人をのせてノシノシ歩くテーマパークもある。しかしここは19世紀に悪名高き三角貿易(武器‐奴隷‐砂糖)で栄えた砂糖工場のあった場所である。またそれを遡ること80年ほど前、フランス革命のころには「共和国の結婚」という男女組の裸にして川に突き落とすという忌まわしき公開処刑で、リヨンの虐殺と同様、多くの人が反革命という名のもとに虐殺された。

ラグビービレッジ到着のころの大画面では既にイングランドーサモア戦が半分終了している。ここでは私達はサモアを全力で応援しなければならない。ウェールズ人もフランス人たちも憎きイングランドを凹ましたいと思っているはずなの、これは盛り上がる。

まだまだ次がある。今度は21時からアイルランドースコットランドの一戦だ。
南アフリカが好調なだけに、この1戦が両チームとも突破のための世紀の一戦となる。これは2019年の横浜の再戦となる。ここはスコットランドが最後まで意地を見せる。このゲームで準々決勝のフランスとオールブラックスの相手が決まった。

気がつけば午前0時過ぎになっている。そろそろトラムの終電を気にしなければならない。

 

10月8日 ジャパン アルゼンチンの決戦

いよいよ決戦の日が来た。
ジャパンとアルゼンチンの一戦だ。

午後1時キックオフだが朝から落ちつかない。スタジアムまで歩いていくとトラムからすでに大勢のサポーターが続々とつめかけている。水色のシマシマの姿以上に赤白のシマシマのジャージのほうが多い。スペイン語とフランス語と日本語が飛び交っている。フランス人には日の丸の小旗やジャパンの応援グッズを渡して回る。

短い「君が代」のあと、アルゼンチン国歌となる。長い前奏のあと歌になるが伴奏を無視してだんだん早くなって、顔を真っ赤にして歌うクレービーの気合には圧倒させられてしまった。アルゼンチンの主力のロックラバニーニがすでにレッドカードを受けてこの場にいないのは残念だ。

最高のシナリオはアルゼンチンもジャパンも3−0となっており、すでに進出を決めており1位通過か2位通過を決める戦いになることだ。

そうはなかなか難しいかもしれない、しかし、ここに勝てばまだジャパンに準々決勝進出の可能性が残っている。

最悪の場合は 日本がすでに2敗になっている場合である。
それでもここまでイングランドが4−0で、サモアが2−2、アルゼンチンが2−1ならば、日本が1−2であっても、ここで日本がアルゼンチンをくだせば 日本、サモア、アルゼンチンは2−2で3チームが並ぶことになる。勝ち点や得失点の争いになる。

このあとトンガールーマニア、フィジーポルトガルも残っいるが観戦する元気はもう残っていない。祝勝会か残念会になるのか、どんな気持ちで市内のパブへ足を運ぶことになるこどだろう。

 

10月9日 モンサンミッシェルからパリへ

ともかく次の朝は必ずやってくる。

パリへの帰路しシャルル・ド・ゴールで先発組のO氏とはお別れになる。途中、世界遺産のモンサンミッシェルへ立ち寄る予定だが、明るい気持ちで観光できると信じよう。(後半その2へつづく)

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