早明再戦 自由意志と自己責任

ラグビーはあらゆるスポーツの中でもとりわけ自由度が高い。

ボールを受け取った瞬間に走っても良いし、蹴ってもいいし、当たっても良いし、パスしても良い。

相手に反則やミスがあったときに再開のプレーを選択できる自由が与えられるスポーツは他に見当たらない。例えば最初のキックオフの時から10m飛ばなかった場合には、相手はやり直しなのか、中央でのスクラムなのかのオプションが与えられる。

前回の記事に書いた様に相手に思い反則があったなら、どの様に責めるのかを自由にキャプテンが決めて良い。PGを狙うのも、スクラムをするのでも、蹴り出してラインナウトからトライを狙うのも、タップキックから一歩でも前に出るのでも良い。複数の反則が繰り返されれば、そのどの地点から再開するかを選ぶことさえできる。

そこに選択の自由があるから、実は責任も生まれる。責任とは他からその決定や行為を責められてもそれに理由や原因を応え、その任を引き受けるという覚悟をもつことでもある。

責任という概念は古代ギリシャにはなく、一番古く見積もっても近世以降にキリスト教の原罪の教えが、世俗化して、社会がどんどん複雑化して、さらに裁判の判決が賠償などのお金で解決できる様になっていく中で形成されて来た概念らしい。日本語では責任という言葉でごっちゃになっているが、英語ではResponsibility(遂行責任)  Accountability(説明責任) Liability(賠償責任)と全く別個の言葉になる。

ラグビーもその様な社会の構図を受け止めれて形成されて来たスポーツの一つである。社会で起こる様なことがラグビーの中では起こる様になっている。

しかし、ラグビーは実社会ではない、所詮ゲームであって、勝ったり負けたりするものだ。全ての判断がうまくいくなんてことはない。自然主義者の決定論の考え方の様に「人には自由意志はなく、あらゆる結果は因果関係があって判断にかかわらず、全て結果が決まっている」なんてこともない。楕円のボールがどちらに跳ねるかなんて誰もわからないのだ。

だから一緒に戦ったもの同士の間には、ノーサイドがあり、アフターマッチファンクションがある。仲間同士であのプレーはこうだったよなとか、ああだったよなとか、あればうまくいったねなんてことを言い合うのが楽しい。一緒に戦った者同士はもう仲間である。試合中はあらゆる自由な選択肢の嵐である。その全ての自由な選択を責めるなんてことはできない。

そして試合中の思わずやってしまった危険な行為についても全く同じである。それが故意でなくても、自由意志でなくても、不可抗力であっても、結果に対して責任を感じれば、相手から責められる前に、一言素直に謝れるのだ。あらゆる行為の責任をみんなでかばい守ることができる

ラグビーは自由があるので、そこには責任もあるのだが、ゲームが終わればその責任からは自然に解放されることが約束されているスポーツである、とも定義できる。

今回の勝敗は元より、最後の石田桔平のアタックを責める様なことはできないはずである。

明治が負けた瞬間にオールド明治ファンの友人からショートメールが送られて来た。そこには「石田でダメならしかたない」それが本来のラグビーファンの姿だ。

 

そのはずであった。

 

最近の現実の社会の風潮はそれだけに止まらない。
ネット上で石田への誹謗非難が集中しているらしい。

行き過ぎたネット社会になって、誰でも無責任な非難の言葉を責任を感じずに表明することが可能になってしまった。ちょっとした行動からや、言葉尻にかこつけて突然炎上が起こったりしてしまう。生活の中でなんらかの問題や不満を抱えている人の不満の解消の手段の餌食となってしまう。なんとも呼吸がしにくい世の中になっている。

 

なんでも「自己責任」という言葉で片付けてしまい、その人を守ることを放棄し、簡単に人を突き放すことが当たり前になって来てしまった。

あらゆる商品やサービスの商取引にも個人情報の同意や商品説明など誰も最後まで読めない様な細かな文書がついていて、「はいサインしたでしょう、こちらの責任はありませんから」となってしまう。

依存症や貧困の問題、戦争ジャーナリストに対しても「自己責任」だからで済ましてしまう。

「自己責任」という言葉を使った瞬間に、行為を行った人の意図や事情や背景、その原因や遠因などまた弁明の機会、解決の手段の模索の機会などを全て奪い取ってしまう。まさにこれは集団暴力に他ならない。

責任という言葉が怪獣の様に巨大化して社会全体を支配してしまったかの様である。

だから、今年は責任逃れのための魔法の言葉が、流行語大賞候補になった「知らんけど」。これを最後につけるだけで責任逃れが完成する。知らんけど。

実存主義の哲学者ハイデガーによると、人は自由にいろいろな立場や存在になることができるので。存在そのものが自由があるので存在そのものに責任があるとする。

この考えには実は危険性がある、人は必要以上に責任を追ってしまい。何も行動できなくなくなる。言葉そのものも萎縮してしまう。行き過ぎれば災害時などの時の「サバイバルギルド」にもなってしまう。

 

話をラグビーに戻せば、

12月4日の吉村は性格的にもともと計算高いので、萎縮したわけでないのだがPGの選択はしなかった。(でも前に書いた様に25日もキャプテンだったら、今度はビビってPGの選択はできなかった様に思えるのだが)

一方の明治の石田キャプテンは、キャプテンとなってから必要以上にその責任感を負ってしまっていたらしい。シーズン中も合宿所で重圧に耐えられなくて一人思い悩んだことも多かったとのことだ。それらを振り切って立ち返って最後のアタックは褒められるにせよ責められるものでは全くない。

石田くん耐えろ、弱みを見せるだけそこをめがけて言葉の暴力が突き刺さってくるぞ。

 

 

 

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