ラグビーを哲学する 構造主義 レヴィ=ストロース

「ラグビーを哲学する」のシリーズは、多くの哲学思想にラグビーを当てはめて考えようとする試みです。ラグビーの本質をよく知ることにもなりますが、同時に哲学のおさらいになり、普段の生活を見直してみることにもつながっていくかなと思っています。

今回は構造主義のレヴィ=ストロースです。

レヴィ=ストロース

レヴィ=ストロースは、文化人類学者として、サンパウロ大学でアマゾン奥地でのフィールドワークを重ねました。大戦中は西部戦線に従軍、その後退役しますが、除隊後フランスに危険が迫りニューヨークへ亡命します。そのニューヨークで言語学者のヤコブセンを通じて、ソシュールの構造言語学に触れることになり、その理論に衝撃を受けます。フィールドワークで取集した実例の整理に役立つ手法だということがピンとしたのです。

この出会いがまさに構造主義の誕生の瞬間だったと言っても過言ではありません。

その成果は、「親族の基本構造」という論文にまとめられます。世界中どこにでも存在するインセストタブー(近親相姦の禁止)から親族内外での「女性の交換」としての構造を突き止め、「贈与のシステム」などの構造を明らかにしました。

さらに彼の思考を一般にまで知らしめることになったのは「悲しき熱帯 1955」「野性の思考 1960」です。


「悲しき熱帯」では、未開と言われるアマゾンの先住民の文化が、欧州に劣らず豊かで知性的であることを情感たっぷりに説き、欧州中心主義、その一辺倒の考えにそれは傲慢であると警笛を鳴らします。
「野性の思考」では、有り合わせでなんとかしてしまう方法を「ブリコラージュ」と呼び、欧州の思考法は言わば飼い慣らされた「家畜の思考」であると指摘しました。

サルトルとの論争から構造主義の幕開けへ

戦後のフランスでは、サルトル実存主義マルクスの唯物史観、進歩史観と結びつき、戦後の欧州の思想では絶頂を極めていました。そしてサルトルは同僚のカミュ不条理と言いながらも世界の革命にアンガージュしないことを批判していました。

こういったサルトルに対し、レヴィ=ストロースは先の著書「野性の思考」の中で、言わば唐突に批判をはじめます。サルトル は欧米中心の直線的な歴史観に固まっていると痛烈な批判をしたのです。神の存在を否定するサルトルが、マルクスの直線的史観に神の様に固執しているのではないか、サルトルの考えも世界中にある思考の一つのサンプルに過ぎないとまでコケ下ろします。これに対してのサルトル や取り巻きの実存主義者たちが、その批判された歴史観を持って対抗してしまったことで、この論争はあっけなく決着がついてしまうのです。
こうして実存主義戦後15年で終わりを告げ、60年代は構造主義の時代になったのです。

日本では欧米の主流とは違って、サルトルの実存、戦後マルクス主義が戦後から70年代初頭まで知識人の主流の考えでした。マルクスの思想は当時の日本の知識人にとってはまさに宗教と言っても良いほどでした。しかし70年代に入ると、様々な事件が立て続けに起き、無力感、閉塞感から求心力を失います。そこでポストモダン、構造主義の登場となったのです。80年代には、レヴィ=ストロースからロランバルドジャックラカン、からフーコー、さらには脱構築のデリダドゥルーズまで、一挙に現代思想がブームになりました。

浅田彰「逃走論」スキゾ、パラノという言葉が流行語大賞の候補になったのも今考えると懐かしいものがあります。

 

交換システムとしてのウォークライ

ここからはレヴィ=ストロースの研究に習って、ラグビーのウォークライを考えてみたいと思います。

オールブラックスがハカを踊られるようになったのは19世紀の初めからです。
マオリ族はそれぞれの部族でオリジナルのハカがあり、その中から「カマテ」がえらばれました。そして、2005年からマオリ色を排除した「カパオパンゴ」が作られました。

 

トンガ、フィジー、サモアもそれぞれ独自のウォークライ「シピタウ」「シンビ」「シヴァタウ」を持っています。そのほかスーパーラグビーを含め全てのラグビーチームは独自のハカがあります。先日のスーパーラグビー決勝では、ハイランダーズの姫野がハイランダースのハカを披露し、先週はオールブラックス相手に初めてトンガの代表に選ばれた大東大出身のサウマキも「シピタウ」を踊りまました。

マオリの神話によると、ハカは太陽神タマヌイテラとその妻夏の神ヒネラクマティの息子タネロレが、夏の暑い日に母のために熱気を帯びた踊りを披露したのが始まリとされます。
その後、結婚式や葬式や様々な儀礼の際に、すなわち共同体である部族が何かなそうとする前に、その踊りが踊られる様になったのです。それは生命の祝福としてのものでした。そして、部族の結束を意味するものでした。それは部族間の戦いの前にも当然ながら披露される様になったのです。

戦いの前に相手に向かって踊ることは、言わば「あいさつ」です。レヴィストロース に言わせれば、交換の儀式です。贈与のシステムです。見返りを求めての贈与ではなく、ハカを送るという純粋な贈与の行為です。コミュニケーションなのです。ハカを受け取った相手はその意味や価値は分からなくても何か大事なものををもらったという事実は必ず残ります。

マオリの伝統文化を重んじるニュージーランドでは、町内会から学校、会社やママ友まであらゆるコミュニティーの多くが独自のハカを持っていて、アイデンティを示すものになっています。(レヴィ=ストロース風に言えばトーテムとしての意味もあるということになります。)

大相撲の所作について

日本の大相撲の仕切りの所作もハカと同じ様な「交換の意味」があります。つまり同じ構造の上に成り立っていると思うのです。

まず蹲踞(そんきょ)します。蹲踞とは相手をリスペクトしているという意思評議です。そして両手で塵を切ります。塩を巻くと同様に、汚れを追い払う意味があります。そして四股(しこ)を踏みます。これは、大地の怒りを鎮めるためとされます。

しかし、これらの所作は記号化されており、その本来の意味は特になくても良いのです。お互いに所作を交換することの方にこそ重要な意味があるのです。「これから呼吸を合わせ、対戦相手と共同で事を起こしますよ」ということを、示す役割になります。

ラグビー日本代表は、相撲協会の許可を得て「雲龍型」、もしくは「不知火型」の土俵入りをゲーム前に披露してはどうでしょうか、「よいしょ」の掛け声で大いに盛り上がると思いますし、「せりあがり」はスタジアム中の拍手が起こると思います。ウォークライに対しての日本の伝統に基づいた返礼という大きな意味があります。それらは。欧米の「家畜の思考」しかない面々には十分なプレッシャーを与えることにもなります。
(グー君や稲垣の雲龍型や、不知火型を見てみたいと思うのは私だけでしょうか、横綱でないとなかなか許可がでないしょうけど)

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