ラグビー を哲学する スピノザ「エチカ」から その2

「ラグビーを哲学する」のシリーズは、多くの哲学思想にラグビーを当てはめて考えようとする試みです。ラグビーの本質をよく知ることにもなりますが、同時に哲学のおさらいになり、普段の生活を見直してみることにもつながっていくかなと思っています。

スピノザの「エチカ」その2です

汎神論

スピノザは汎神論をとなえます。
神は無限である、よって外側を持たない、全てが神の中にある、人間も然りである、神は自然そのものである(=神即自然)、すべてが自然法則に従う、何もそれに逆らえない、よって奇跡は起こらない、と論理を進めます。当時や今も神は人の形をしていて(逆ですね、神に似せて作られたのが人です)、上から何かを諭したり罰を与えたりするという考えがありますが、それとは全く異なります。
(これだから、18世紀には危険思想と思われても仕方なかったと思われます)

日本の「やおよろずの神」のようですが、スピノザの神は1つであって全てを包含していると言うところが少し違います。

実体は神である自然だけであり、人を含め万物はその神が変状した様態であるに過ぎないとします。人は実体は消えないが、様態は時と場合で変化したり消えたりもします。(國分氏は実体と様態の関係をシーツとシーツのしわの関係で説明します。)人は神の持つ思惟延長属性が、体と身体という一体の形で現れたに過ぎない(=心身平行論 デカルトの心身二元論を否定します)

完全と不完全 良い悪い

したがって、人を含め万物は神の現れとして、その時その場で「完全な姿」で存在すると考えるのです。例えば作りかけの家があったとしてもそれはその状態で「完全な姿」なのであって、それを未完成としてしまうのは、人の思い込みの産物に過ぎないとします。ですから人や物や行為そのものにも善いも悪いもありません。
良い悪いは組み合わせで決まるのだとするのです

この考えは例えば生涯を持っている人も、健常者も同じ「完全体」というユニバーサルに考えるあり方であり、障害のあるなしも個性の一つという考えと同じです。例えば歩道に段差があった場合、段差そのものが悪いのではなく、足の悪い人とのくみわせで悪いものになるのでそれが障害であり、直すべきだということになります。マイノリティーに優しい考え方です。

ラグビー選手でいえば、でっぷり型、ほっそり型、ガッリリ型、すばしっこいやつ、様々な選手はどれも大切な完全体としての個性で、チームとして組み合わせで良いか悪いかが決まるといういうことです。

本質であるコナトゥス

それでは良いか悪いかの判断基準は何でしょう。
スピノザは、良いことは、それが持つ力を十分に発揮させる様な組み合わせのこととします。
あらゆるものの本質は力であるというのです。その本質をコナトゥス」だと言います。「コナトゥス」とは自己を維持しようとする力のことです(古代ギリシアでは形状=。この自己維持の活動を推進させるものがであり、自己維持を低下させるものがでです。人の行為がその行為の対象物にとって自己維持力(=コナトゥス)を促進させるなら、その行いは善、維持を阻害するならその活動は悪です。人も自分の力が十分発揮されることが喜びでありであり、力が発揮できなければ悲しみでありであります。

先ほどの色々な個性集団のラグビーチームが良いとされるのは、様々な選手の持つコナトゥスが活かされ、チームとしての最大の力になる様な組み合わせになるということです。また外観だけでポジションは決められません。以前は体の大きなものがFW、小さいものがバックスをやると決められていました。その人の個性やコナトゥスも違うので、それが増大できるようなポジションの決定が必要になります。さらにその決定がチーム全体のコナトゥスを増大させるように働かなければ意味がありません。

良いキック、良いタックル

ラグビーのプレーにも似たところがあります
プレー自体に良い悪いはなく、全て組み合わせで良い悪いが決まると言うところです。
例えばグラバーキックやハイパントなどのインプレーでのキックを考えてみます。遠くに飛ばすだけ、高く上げるだけのキックが良いキックとは限りません。キックそれ自体には良いキックも悪いキックもありません。キックは陣地を取り戻すことができますが、ボールを相手に渡してしまうことになります。うまく継続して責めることができているのにキックをしてしまうと、その攻めのリズムを崩してしまうことになったりします。また失敗したかなと言うキックでも、相手のミスを誘って思わぬチャンスになったりします。

すなわち、点差、地域、時間帯、流れ、モーメンタム、意識、などなど、あたりがよくで軌道も良い同じキックであっても、善とされるキックと悪とされるキックがあるのです。

同じようにタックルもそうです。
私のようなオールドなラグビーファンは胸のすくような綺麗なタックルが決まった時に思わず叫んでしまいます。「ナイスタックル」。
しかし、いつだったかこんな話を聞きました。
テストマッチでとても良い席で観戦していた友人の話です。その友人は、日本代表の胸のすくようなタックルを目の当たりにした時に、やはり叫んだそうです「ナイスタックル!!」。そしたらその言葉に近くから変に甲高い日本語の声が返ってきそうです。「タックルにナイスかそうでないかナンテアリマセーン」振り返るとその声の主は時の日本代表ヘッドコーチのエディジョーンズだったということです。どんなにかっこいい芸術的タックルであっても、流れを変えれなかったり、ボールを繋がれたりしたのなら「そのタックルはナイスでもグッドでもない」ということだと言っているようでした、とのことです。

 

 

 

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