ラグビーを哲学する ソクラテス、プラトン、アリストテレス

「ラグビーを哲学する」のシリーズは、多くの哲学思想にラグビーを当てはめて考えようとする試みです。ラグビーの本質をよく知ることにもなりますが、同時に哲学のおさらいになり、普段の生活を見直してみることにもつながっていくかなと思っています。

 

先に公開しようとしましたが、あと先になってすみません。哲学といえばギリシアです。

バチカンにあるラファエロが書いた「アテナイの学堂」の絵です。名だたる哲学者が一堂に会してしいます。
今回はソクラテス、プラトン 、アリストテレスを取り扱います。1

ソクラテス

ソクラテスは口先ばっかりのソフィストたちの衆愚政治をただすために、問答法、産婆法を使い、質問攻めでソフィスト達を論破していきます。「無知の知」(=知らないということを知っていること)が大切で、ただ生きるだけでなくよく生きることが大切だと説きます。魂=プシュケーへの気遣いである。それには、ますは知や善を知ることが重要だとして、知ることができれば行うことができ、(=知行合一)、魂の優れたあり方徳を実現する(知徳合一)、それが人としての幸福(=福徳合一)と教えます、

質問攻めの方法は一定の成果を上げますが、反感を買い投獄され、不当な裁判で死刑の判決を受けてしまいます。しかしソクラテスは「悪法も法なり」としてそれを受け入れ「独人参の杯」をあおります。肉体は滅びても、魂は滅びないと考え、魂の最も喜ぶことは正しいことを曲げないことだという自分の哲学、それを全うしましたのです。

ラグビー でも酷いレフリーに当たってしまうことがあります。しかし大抵のラガーは「悪法も法なり」としてそれを受け入れます。ラグビー のなんたるかを知っていれば、ゲーム中ので出来事を受け入れ、そのように行動し、=知行合一)徳を、例え負けたにしてもを持ってゲームをまっとうすれば(知徳合一)、勝敗を超えた幸福を得られるということ(=福徳合一)を知っているからです。

勝敗を超えた幸福とは何か、それは試合後の美味いビールです。例えば試合中に頭に来てレフリーをぶん殴ってしまったとしたら、試合後のビールはまずいです。そうでなくてもイライラしてそれがプレーに出て反則やミスを続けてしまったら、試合後のビールはまずいです。「今日のレフリーはやれやれだったよな、でもお互いがんばったよな」という時ビールは各別です。

 

プラトン

プラトン は元レスラーで、プラトン というのはリングネームでした。肩幅の広い者というもことです。ソクラテスの死にショックを受けクラテスの考えを対話形式の書物にして残し、そしてその考えをさらに押しすめます。

本質はイディアであるとしました

世界をイディア界現実界に分けます。本質はイディア界にあって、人は現実界にいるので本当のものを知ることはできないとします。

このイディアの説明でよくで来るのが、三角形のイディア洞窟の比喩の話です。紙に書いた三角形は凸凹があったり、直線が曲がったり、完璧な三角形ではありえない。人は洞窟の中で外を見ることができず、壁に移った影を現実と思ってみているにすぎないというのです。

ただし、人のは最初はイディア界にあったのでイディア界の記憶として本当のことを知っており、現実界にあるものはイディアの特徴を分有しているので、人は現実界のものをみたときに本物のイディアを想起(アムネーシス)できるのでものを認識できるとします。人の魂は魂がもともとあったイディア界に憧れます。これはエロースです。イディア界で最も上位にあるイディアはであると考えました。

現在では死語になったプラトニックラブのプラトニックは、プラトン的愛という意味で、このプラトンのエロースの考えから来ています。肉体的愛よりも精神的愛が尊く、精神的愛の中でも最高のイディアである美に対する愛が、最も尊いというのです。

魂は理性気概欲望から成り立っているとしました。魂の三元説です。理性がよく働き暴れ馬の様な、気概と欲望を上手にコントールできれば、の域に行けるのだと言います。理性の最も良いのがが知恵で、気概の最も良いものが勇気、欲望の最も良いかたちは摂生です。これらがうまくいっていれば正義が達成される、これが四元徳(しげんとく)と言います。

 

ラグビーでも理性的にプレーすることが重要なことは言うまでもありません。
気概が空回りしてしまったり、欲を出して勝ちを意識してしまったり、個人プレーに走ってしまったりすると、途端にミスが重なったり、流れが変わってしまったりします。通常のプレーの選択も、極端に慎重になりすぎても、向こうみずになってもいけません。どんな場面でも冷静さは必要です。私はラグビーの本質は勇気ではないかと思うことがよくあります。それは「仲間のために体を張れる勇気」です。「オールフォーワン、ワンフォーオール」の元になるものではないかと思います。それは自己犠牲とはよっと違うと思います。自分も生かしながら仲間を助ける。理性を働かせてラグビーをプレーすることです。そういうことでを身につけることができると考えています。

本当に理想的で最高のラグビーってどこにあるのでしょう。きっとそれは現実界には存在せす、イディア界に存在するのでしょう。一度ラグビーにハマってしまう人はそこから抜けられなくなってしまいます。そんな人はイディア界の理想のラグビーをに恋い焦がれてラグビーに携わっているのではないでしょうか。まさに「ラグビー愛」、「ラグビーエイロース」です。

次のアリストレテスは中庸の考えを用いてその考えをより具体的にしています。

アリストテレス

プラトン はアカデミアに大学を作ります。(現在のアカデミックやアカデミー賞の語源です)その中で飛び抜けて生徒がいました、その名はアリストテレスです。
アリストテレスは20年間アカデミアの生徒として学習していました。
プラトン のイディア論に対して反論します。魂も全てが現実界にあるのではないかと考えたのです。プラトン らの理想主義に対して現実主義を展開したのです。

冒頭で紹介したラファエロの「アテナイの学堂」の真ん中にいる2人がプラトン とアリストテレスです。左のプラトン は指で天を指しイディア界のことを示しますが、右のアリストテレスは手のひらを下に向けて現実世界を示しています。

あらゆるものは形相(エイドス)質料(ヒュレー)とでできいるとします。エイドスは本質、ヒューレーは素材です。形相は現実界の質料に内在しているとします。
例えば、椅子の質料は木材であり、木材の中に椅子のエイドスが宿っているというのです。つまり形相=エイドスは設計図の様なものです。

樫の実は木材になり、木材が椅子になるという様にその本頼の目的の姿を達成するための設計図が存在するというのです。目的論的自然観です。可能体(ディナミス)が現実体(エネルゲイア)になる目的を持っているとします。
木は木材という現実体の可能体であり、木材は椅子という現実体の可能体であるということになります、そして無限に目的を遂げる様に発展し続けて行き着くところがである。神はそれ以上のものにならない純粋形相であるとし、自分は動かないが全てがを自分に引き寄せる「不動の動者」であるともいっています

 

目的論をラグビーで考えてみましょう。

トライにはゴールというエイドスがあります。ゴールという現実体になるための可能体がトライなのです。ゴールはまたゲームの勝利という現実体の可能体であります。ゲームの勝利は、試合後の美味しいビールの可能体でもあります。

逆にゲームで負けてもそれが美味しいビールの可能体ならば目的論的にはOKです。負けのゲームがおいいビールの可能体であるためには、負けのゲームに美味しいビールのエイドスがなければなりません。そうなると、そのゲームの質料がファインプレーやオールアウトでなければなりません。

 

プラトン の死後アカデミアとたもとを分かちマケドニアのアレクサンドロス大王の家庭教師になります。アレクサンドロス大王の支援で、リュケイオンに学校を作ります。そして哲学だでなく、生物学、天文学、論理学など多くの万学の祖となりました。リュケイオンには回廊があり、回廊を歩きながらあらゆる学問に対して対話をして思考を深めたので、逍遙学派(しょうようがくは)、またはペリパトス派と呼ばれました。
ただし、アレクサンドロス大王の死でマケドニアの没落によって、アリストテレスは亡命し、その直後62歳で亡くなっています。

アリストテレスの言葉で有名なものを2つだけ紹介します。

「人はポリス的存在である」
よく間違えられるのが、「人は社会的存在だ」という言葉です。
またポリスは警察ではありません。
アリストテレスのいうボリスは最高善を目指す共同体=国家を指します。人も最高善を求めて、理性を持って生きるものだという意味です。

そのためには良い行為を反復して習慣つけることが重要だとしました。

「中庸(メソテース)」
理性的に生きるために必要なこととして中庸を上げています。
具体的に生活する方法を示しています。

無謀と臆病の中間である「勇気」
短気と呑気の中間である「温和」
内気とハレンチの中間である「慎み」
高慢と卑屈の中間である「矜恃」
などなど、

この様な中庸の生活を習慣的に続けることで、正義と友愛(フィリア)、徳を得ることができるとしました。

 

 

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