11日大学選手権決勝 23年ぶりの早明決勝戦

今年の大学選手権は1月11日に新装の国立競技場で行われる。
かつては大学選手権決勝や日本選手権1月15日に、満員の国立競技場で行われるのは風物詩であった。新成人が晴れ着、振袖姿で集うのも華やかであった。

そして今年は、大学選手権決勝が国立競技場に戻ってきた。長年大学ラグビーの歴史を築いてきた両校、早稲田と明治が新たな舞台で戦う。なんとこの両校が決勝戦で会いみまうのは23年ぶりのことだという。

そこで今回、23年前の早明の決勝戦とはいかなるものであったかを振り替えてみたい。

時は1997年1月15日、第33回大学選手権。場所はもちろん旧国立競技場。観客数5万8千人との記録がある。
当時の明治のメンバー表の中に9番田中とある。現在は明治の監督の田中澄憲氏である。なんとも運命の巡り合わせを感じざるを得ない。

 

明治、早稲田共に特別な2006シーズン

それにも増して、明治、早稲田共にこの年は特別な年であった。

明治にとっては、北島忠次監督が5月28日に死去し、追悼の1年となった。紫紺のジャージの襟は喪章を表す黒であった。北島忠次は明大ラグビーの精神的支柱でその象徴、今では神格化されいる存在である。名言の「前へ」はラグビー域を超え、今はもちろん、今後も永遠に多くの人の人生の哲学であり続ける。

早稲田は、中竹竜二がキャプテンに指名され、炎のタックルマン石塚氏が新監督に就任した。本城や藤島大もコーチングスタップに関わる。
中竹はのちに早稲田の監督、U20日本代表の監督も務め、理論派として知られ、日本協会のコーチングディレクターを経て今季は協会の理事に就任した。しかし当時中竹は3年次が終わるまで公式戦出場は全くなかった。早稲田の長い歴史の中でも出場経験のない選手がいきなり主将に任命されることなど、前代未聞のことで周囲には反対もあったという。

このシーズンを振り返るに当たって、時見宗和氏著の「オールアウト(スキージャーナル刊)」からの引用を使用させていただくとする。興味を持たれた方は是非とも購入されることをお勧めする。そこでは、若き中竹氏が悩みながらも独自の思考と活動でチームの力を発揮させようと奮闘する姿が描かれる。


決勝戦の前に布石があった、1996年12月1日の早明戦である。
それまで明治は全勝。早稲田は、慶応に後半39分に逆転のPGを決められ1点差で敗戦。何れにしても勝った方が優勝するという大一番となった。しかしこの一番は早稲田が後半39分まで15−12とリードするも、最後に明治のスクラムでのペナルティトライで勝敗が決するという、双方に後味の悪いものになってしまった。結果15−19で明治の勝利。(レフリーの判断は早稲田FW全員でのコラプシングの繰り返し、今では反則の繰り返しではトライは認められないのだが、当時はまだ曖昧であった。シンビン制度はこの年から導入されたばかり)

 

第33回大学選手権決勝1月15日

そして、両校共に大学選手権を勝ち上がる。

明治はいずれも大量得点である。
一回戦、福大102−5。2回戦、日大70−15。準決勝同大55−38。

早稲田は苦戦しながらもそれに続いた。
一回戦 法政68−11。二回戦筑波32−21。準決勝関東学院32−27。

そしてそして1月15日を迎える。

 

決勝戦の早稲田のメンバーは
1、石島、2、青野、3、山口、4、有水、5、中西、6、吉上、7、中竹、8、平田、9、前田、10、月田、11、長島、12、山崎、13、山本裕、14、山本筆、15、吉永

明治のメンバーは

1、満島、2、山岡、3、中地、4、斎藤、5、鈴木、6、松本、7、岡本、8、神鳥、9、田中、10、伊藤、11、山科、12、藤井13、美輪。14、藤田、15、山下

この時の様子を時見オールアウトから引用させてもらう。(全て早稲田寄りの描写です)

チェイス」平田輝志が明治陣22メートルの向こう側に蹴り込んだボールを追って、有水、中西、吉上の三人が一斉に飛び出し、その後を夏合宿で練習した通りに、石島、山口が続いた。(オールアウトより)

最初のラインアウト

ラインアウトに並んだ青野が驚いたのは明治の選手がずっと小さく見えたことだった。(オールアウトより)

中竹は静かなだと思った(オールアウトより)

そして、前半20分までにお互いに2本ずつPGを取り合って6−6の同点

最初のトライは前半20分早稲田のボールの処理ミスから生まれる。

早稲田が自陣で明治からボールを取り返し、月田がタッチを狙ってキック。これを明治がチャージし、こぼれたボールを左オープンにパス。しかしこのボールは山本、山崎を通り越し。永島の前に落ちる、これを永島が拾い損ね、明治のWTB福田が抑えてトライ。6−13

そして前半30分には早稲田自陣の10m22mのモールのこぼれ球を、田中が拾い大きくスワープ してサイドを抜け独走のトライ。ゴールも決まり、6−20と引き離す。直後にも早稲田陣で明治斎藤がラインアウトをキャッチし、モールを形成、15m前進し、田中から飛ばしパスでWTB福田にボールを運び、福田が右隅に連続トライ。これで点数はさらに広がり6−25。前半で19点の差がついてしまう。

後半開始から早稲田が攻める。
ゴール前のラックから中竹が抜け出すと、平田、青野、吉上のサポートでインゴールに運び込まれる。これは、中竹にとっては公式戦の最初で最期のトライになった。

岩下レフリーの右手が上がった瞬間、前田が両手を叩き、いつもトライの時に笑顔を見せる平田は口を一文字に結び、有水が強く握りしめた右手の拳を地面に向けて小さく振り下ろす。そして中竹は「自分がトライを取ってしまった」と思った(オールアウトより)

そうである。

さらに早稲田はPGで加点し、さらに15分にオープン攻撃で山本のトライが生まれる。これであっという間に19ー25と6点差になる。

24分には早稲田の早い動きについけいけない明治は、ディフェンスが焦り始めオフサイドの反則を犯す。ここで早稲田、吉上がPGを決め22−25と3点差

スクラムで明治のフランカー岡本が逆のサイドにつこうとしたのを見た中竹は、明治の疲労がいよいよ高まっていることを確信した(オールアウトより)

明治に右に左に振り回され、フォワードの足が止まり始めている。誰もが早稲田の逆転は時間の問題であると思い始めた。

その後32分の明治のラックでのプレーに中竹が抗議するが、レフリーは聞き入れない。ここで流れが変わった。

後半32分、それまでグランド前面を駆け巡っていたボールは、鎖につながった犬のようにその動きを拘束させることになった(オールアウトより

明治がボールをキープしてジリジリ前進する。早稲田に反則が多くなり、何度となくスクラムがくみなおされる。スクラムでも早稲田に注意が与えられる。

さらに、終了間際のスクラムで早稲田にコラプシング。早明戦の最後と同じに又しても明治にペナルティートライが与えられる。

22−32と点差は10点に広がる。ワンプレーでは追いつかない点差となる。

おかしいどうしてこうなるのか有水は思った。(中略)なぜ運は明治の見方とするのだろうと山本は思った。(中略)。負けた、と青野は思った。(中略)。平田は仰向けになったまま空を見つめた。 中竹は思った。ロスタイムがまだたっぷり残っているはずだ。(オールアウトより)


 

しかし、その後は明治がこれまでと打って変わったようにボールをキープしたままオープンに回してくる。中竹が冷静に計算したはずの残り時間はみるみるなくなっていく。

タッチに出た瞬間、ノーサイド

ラインアウトのスローイングに向かおうとタッチラインに向かって歩いていいた中竹は、ホイッスルが鳴り終わってもそのまま歩き続け、明治のキャプテン松本とすれ違った。
有水は身体中の力が抜けきったようにその場に崩れ落ちた。

誰もが、悲しやさ悔しさという感情を通り超え、別の何かと向かい合っているように見えた。

(中略)

その日の中竹の日記には一行で終わった
ー1月15日。どうして負けたのか、理由が見つからない。(オールアウトより)

前月の早明戦と同様に、またしてもペナルティトライの認定が勝敗を決することになってしまった。

その後

この翌年から関東学院大学の躍進が始まる。もちろん帝京大学の9連覇などからは10年以上前の出来事である

明治大学はこの年の優勝を境に大学選手権優勝から、遠ざかることになってしまった。部内の不祥事なども発覚して低迷が続いた。そして次に明治の優勝がなるのは、23年前に3年生で9番で先発していた田中監督に就任した昨年度2019年のことである。実に22年間という長い時間が過ぎていた。22年というと今の4年生はまだ生まれてもいない。

早稲田は、2007年2008年の2連覇を最後に、その後帝京大学の連覇を許し、昨年度まで11年間優勝がない。この最期の2連覇を果たしたチームの監督は、何を隠そう23年前に早明の決勝で破れたキャプテン、そして現役唯一のトライをその試合であげた中竹竜二その人である。

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