平和だからこそラグビーができる

前の記事、スーパーラグビー雑記雑感では、「今スーパーラグビーが気が抜けてしまっている」と批判めいたことを書いてしましましたが、誤解しないでもらいたいと思います。それは、批判ではありません。

これは、むしろ、「非常に健全なラグビー現象」であると思います。

結論から言うと平和だからこそラグビーができるのです。

 

本当に相手チームのことが、憎く、敵意があり、心底貶めようとするなら、ラグビーという競技は成り立ちません。

相手チームを信頼し、共に気持ちのいいノーサイドを迎えることが待っていることが約束されているからこそ、本気で体をぶつけあることが可能になるのです。

もしも相手を傷つけてやろうとか、ダメージを与えてやろうとか思えば、それは、ルールの中で、合法的に遂行することが可能です。怪我をしている相手に集中的にプレッシャーを与えるとか、怪我をした相手の怪我の部分にだけ激しくタックルに行くなど、別にルールで禁止しているわけではありません。

もちろん怪我を押して出場するからには、その選手にはそれ以上怪我の具合が悪くなるリスクは承知の上です。もし試合中そこにあたられたとしても相手を憎むことなどするはずはありません。相手を信頼しており、相手もそこだけを意図して狙ってくるなどとは思ってもいません。

しかし、もしも相手の怪我の部分が目の前にあって、そこを攻めればボールが取れると、その時にそこが相手の怪我の部分だなと思った瞬間「ふと力が抜けてしまうのが本来の人間なのです」。それがラグビーです。もちろん無我夢中で相手のことを気にかける余裕がなく、たまたま、相手の傷を重くしていますようなプレーをしてしまい、それが元でゲームに勝ったとしたら、ノーサイド後では気まずくなります。そのビールの味は心なしかいつもよりも苦いです。もちろん勝つためにやっているのですが、半分以上は美味しいビールを飲むためにやっています。

日本ラグビー界の伝説の監督、大西鐵之祐はその著書「闘争の倫理」でこう記しています。

「試合中にこいつをのばして、頭を蹴ったら勝てると言うときに、待てよ、それは悪いことだと 自分をコントロールできること」

大西鐵之祐は最終講義(1987.1月)ではこうも言っております
「闘争の倫理とは(中略)結局はきれいかきたないかということです。」

ロスオリンピックの無差別級柔道決勝の山下選手対ラシュワン選手の試合で、ラシュワン選手は山下選手も怪我をした右足を最後まで狙わずに銀メダルに終わっています。結果山下選手が金メダル。この時も賛否両論があったと記憶しています。でもラシュワン選手には自分の信念がありました。何がきれいかきたないか自分で決めるのです。というか、実は右足を攻めてはいます。でもそこに本気が入ったかというとそうではなかったのだと思います。力は入りきれなかったと思われます。そのことがまさに闘争の倫理です。

15人と15人が体をぶつけ合っても、レフリーの目は2つだけ、アシスタントをいてれも6つの目を盗むことなど簡単です。最近はTMOという機械の目も導入されました。これは果たして正しい方向なのでしょうか?
取り締まりを強化することで、ルールを守らせようとするので良いでしょうか。それでは、ルールにだけ沿っていれば文句はないでしょう。となってしまうのではないでしょうか、完全なる誤りです。世の中ルールや法律は後からできるのです。フェアとジャスティスは違います。

レフリーが見ていようがいまいが「お天道様は見ています」、清い心の持ち主ならば、自分の清い心には騙されません。

最近はトライやノートライかでよくTMOになります。TMOにかかっている時間に、対象となっている選手の態度や表情を見れば、その選手が、清い心を持っているかどうか判ります。例えば、トライかノックオンかと言う微妙な判定でも、当の選手は「自分ではノックオンをやらかっしたかな」と言うことは十分わかっています。トライならば自信満々ですが、大抵の「やっちゃったな選手」はいかにももうしなげなさそうな態度表情をして判定を待っています。人によっては頑張って自信満々に見せようとしているのに、それがいつもよりもぎこちなくなって、かえって自信がないことをアピールしてしまう選手もいます。清い心には嘘がつけません。素晴らしいです。逆に判定が間違えていてノックオンなのにトライの判定になったとしても、これはこれでノーサイド後あまり気持ちがよくありません。ビールの味は苦く感じます。

もしも戦争がないことが平和であるならば、それは最低限の平和でしょう。しかし、社会に、地域に、ご近所に、職場に、家庭に、夫婦間に、親子間に何かしらの問題を抱えていればそれは、完全な平和ではありません。しかし、地球上の全ての人類は何かしらも問題を抱えています。それらは必ず、プレーに影響してきます。ラグビーは全人格の出るスポーツであると思います。体力だけではありません。気力、知力、集中力それらの全身全霊がラグビーに出ます。ラグビーの選手が思い切り体をぶつけプレーできる姿、それを見るのはなぜ楽しいかと言うと、「様々な問題を解決してこの場に立っているのだな」とか、「いろいろな課題を持ちながらもそれを隠してここに立っているのだな」とか、「家族を含めいろいろな関係者の思いや協力があってここに立っているのだな」とかいろいろ思うわけです。

今回のような痛ましい事件の直後に再び気持ちを奮い立たせようなど、まっとうな人間のできることではありません。体は完璧でも、心のショックは隠せません。心の中がざわついて平和ではありません。ラグビーには体の傷よりも心の傷の方が大きく影響します。

相手チーム(今回はワラタス )であっても、そういう心に傷を負っただろう相手に対し、本気でぶちまかしてやろうとしても本来の力が出ません。それが人間です。それがラグビーです。

今回クルセイダーズに久しぶり勝ったワラタス も実はそんなに嬉しくないでしょう。本当の喜びは完璧で万全なクルセイダーズに勝ってこそです。

プロのチームがそんなあまちゃんな事で良いのかという意見もあるかと思います。ごもっともです。でも、プロである前に人間です。金のためだけではラグビーは絶対にできません。ラグビーは人間がやるもの、特に人間性の戦いの場です。ゲームの勝ち負けの前にラグビーの勝ち負けがあります。

50人の命だけでなく、私の好きな、楽しみなラグビーをまでスポイルしてしまったクライストチャーチの大惨事を心から憎みます。

そして4月6日、クライストチャーチへクルセイダーズはブランビーズを迎えます。事件後初めてのゲームになります。その時には、必ず激しいラグビーを見せていただいたいと希望します。その時いつもと変わらない激しい早いクルセイダーズのラグビーを見る事で平和の重みを実感させていただきたいと思います。

 

 

 

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