2023 RWC 開催都市紹介 その5 ナント

  1. すラグビーフランス大会の開催都市と会場を予習していくシリーズです。

開催都市とスタジアムは下記の9つが決まっています。

 

サンドニ(パリ)         Stade de France 80688人
デシーヌ=シャルピュー(リオン) Parc Olympique Lyonnais 59186人
マルセイユ            Stade Vélodrome 67394人
ニース              Allianz Riviera 35624人
ボルドー             Matmut Atlantique 42115人
トゥールーズ           Stadium Municipala 33150人
ナント              Stade de la Beaujoire 35322人
ヴィルヌーブダスク(リール)   Stade Pierre-Mauroy 50157人
サンテテディエンヌ        Stade Geoffroy-Guicharda41965人

注)収容人数は1月現在のもの、実際のチケット販売数は当然違います。

スタジアム名は現在ネームライツが使われていますが、W杯ではネームライツは使えないので名称も変更になります。
3月には開催のスケジュールが発表されます。

 

今回はその5回目 ナントになります
世界史の授業でお馴染みの「ナントの勅令」のナントです。
「何とナントに行くんだ(byロシュフォールの恋人達)」のナントです。

今回のナントの回では何度も「何と!」が登場しますので、何とも予めご了承ください。

 

1、ナントの位置と概要、スタジアム

ナントはパリからは西南西に250km、フランスで最大の河川ロワール 川(「何と!」1000K以上あります)の河口付近に当たります。ナントは6画形のフランスの大西洋に出っ張ったブルターニュ半島の南の付け根部分になります。(北の付け根部分には世界遺産のモンサンミッシェル があります)

現在ではナントはロワール 経済圏という行政上のくくりになっていますが、古代、中世からフランス革命まではブルターニュ公国、ブルターニュ地方の中心がここナントでした。

ナントは2007年のW杯の時にもウェールズのゲーム中心に3ゲームが組まれました。2023年も同じくStade de la Beaujoireで行われます。Stade de la Beaujoireはナントの中心から東北方向にあります。

 

1、ブルターニュとナントの歴史

1)ウェールズとの関係、「ウルスラ伝説」

ローマ帝国の頃、ここにケルト系のブリトン人が住みつき始めました。ブルターニュとは「ブリトン人の国」という意味です。
英国連邦のこともグレートブリテンと言います。ブリテンはやはり「ブリトン人の国」ですが、「何と!」グレートは「偉大な」という意味ではありません。ブルターニュから見たら単に「でかい」という意味でしかありません。
最初にやってきたブリトン人は、ウェールズの王位継承者、コナン=メリアドクです。コナン=メリアドグは故郷ウェールズでの出世が期待できないと悟り、海を渡りこの地のローマ人を追い払い、住み着きました。そして「聖ウルスラ伝説」がおきます。キリスト教徒のウルスラはこの異教徒のコナンメリアドクと婚姻を結ぶために「何と!」1万1千の処女をお供にひきつれ、海を渡ります。これでブルターニュの男達はキリスト教に改宗します。しかし当のウルスラはコナンとの婚姻の前に巡礼を果たすべく大陸での旅に出ます。しかしその途中で命を落としてしまいます。その「聖ウルスラ」の話は伝説になり、各地で「聖ウルスラ」の聖地や教会が出現します。中世から現代まで「聖ウルスラ伝説」は社会や歴史に様々に影響しています。

今でもナントの街の守護神はウルスラです。


(聖ウルスラの船出 Claude Lorrain)

1万1千の処女の話が本当ならものすごい話ですが、まだアラビア数字が西欧社会にもたらされる前の話で、ローマ数字のXI. Mの表記が間違えて伝わったというのが現在の定説です。(アラビア数字をが西欧に伝わったのは「何と」11世記になってからのことです。悪魔と取引をしたという教皇シスウェステル2世が広めたとされます)

 

2)ブルターニュ継承戦争と三十人の戦い

ブルターニュは公国として長らく(フランス革命まで)はフランスからは距離をおいた存在でした。

100年戦争の際にはブルターニュの継承をめぐって長い間戦乱の地になりました。それにフランス、イングランドが後ろ盾になって、代理戦争の様相を見せました。

ナントも戦場になったことがあります。
ジャン3世が世継ぎのないまま死去すると、弟ギーの娘ジャンヌが後継と見られましたが、これに否を突きつけたのが、異母兄弟のモンンフォール家、ややこしいですがこちらも「何と!」ジャンヌです。ジャンヌの夫ジャンドモンフォールが先手を打ち、ナントやレンヌなどの主要都市を抑えます。そこにブロア家が戻ってきて挽回します。ジャンドモンフォールはナントに逃げ帰りそこで籠城を目論みますが、ナントの市民はモンフォール家にイングランドの援軍が来るまでの期間限定で籠城を認めるという条件をつけます(1341)。結局イングランドの援軍は到着せず、傭兵にも見捨てられモンフォール軍は全滅します。この時ブロア軍は「何と!」捕虜の首を投石器でナントの市内に投げ入れるという荒々しい手を使ってモンフォールの投降を誘う作戦を実行したとのことです。ブロア家がナントを奪い取り、モンフォールは捕虜として捕らえられます。しかしその後も争いは続きます。

この時期の戦争は当時の貴族達にとっては今でスポーツのような感覚でした。実際に戦闘するのはほとんどが傭兵で、「何と!」大将は捕虜になっても身代金を払いさえすれば解放してももらえるのです。さらにそれまでは「何と!」身分相応の飲めや歌えの接待付きで優遇されるのです。

そんな中、「「何と!」三十人の戦い」というなんともゲーム感覚の戦闘もありました。

モンフォール側からはイングランド軍から30名が参加、ブロア軍からは傭兵26名とフランス人数人の両チーム30名(「何と!」ラグビーのちょうど倍の人数です)が参加して日にちを決めて決闘しました。プロエルメル城とジョスラン城の中間地点にある一本のオーク の木が戦闘の場所に決まりました。戦闘開始から途中で双方に死者が数名出たところで、「何と!」ウォーターブレイクが一度入ります。
死闘の後「ノーサイド」となりましたが、双方とも死者は手厚く葬られ、重傷者も手厚く看護されました。捕虜は身代金で交換され、何事もなく両方とも仲良く引き下がったということです。何とも騎士道精神に則っていたということです。 

様々な講釈がアップされています こちらから
もしくはCombat of the Thirtyで検索をしてみてください
「何と!」何件もの解説動画がアップされています

 

3)ナントの勅令について

アンリ14世がこの地で発表した「ナントの勅令」は「何と!」40年も長い間続いた宗教戦争(ユグノー戦争」をやめさせ、信教の自由を世界で初めて認めたことで、世界史の中でもとりわけ重要な事件です。アンリ14世は現在でもフランスでは歴史上最も人気のある王様です。

そこでRWC2023でナントへ行く前に、「アンリ4世」と「ナントの勅令」の復習をしておきましょう。

アンリ14世はガスコーニュ出身であっけらかんとした性格です。母はやり手のジャンヌダルブレです、プロテスタントのナバラ王国の王となります。フランス宮廷では、カソリックのリーズ家と とブルボン家の間で争いが起きていました。その中でカトリーヌドメディチが暗躍します。問題を解決させようと装って、カトリーヌ の長女、これまた問題だらけの妖女マルゴとアンリの政略結婚式を挙げさせます。そこには「何と!」ユグノーの大量虐殺事件(サンバルテルミの大虐殺1572)が仕組まれており、アンリは命辛々パリを脱出します。
その後 アンリはフランス王となり(1589)ますが、争いは治りません。そこでアンリはパリへの入場の際に「何と!」カソリックに改宗(1594)します。今度は治らないのは仲間のユグノー達であって、アンリはユグノーにもカソリックと同じ権利をあたえると勅令を出します(ナントの勅令1598)。勅令を出す地としてナントの地が選ばれたのは、ナントが当時最もカソリックが盛んでその中心であったからです。
しかし、アンリ14世は「何と!」その後すぐに狂信的なカソリックの信者に暗殺されてしまいます1610)。
その孫のルイ14世は、自ら親政をする頃に「何と!」この勅令を撤回してしまいます(フォンテンブローの勅令(1685年10月)。その結果、真面目で勤勉でよく働き、経済の中心をになっていたユグノー達は「何と!」ほとんどがフランスの地を離れ、オランダなどに移住してしまいます。これはフランスの産業革命が数十年遅れた原因にもなり、国庫の財政難からフランス革命の遠因にもなりました。

 

4)フランス革命「共和国の結婚」

フランス革命時の恐怖政治の時期に、ジャコバン派によって反革命の容疑をかけられたもの達が、次々と大量に死刑にされました。その中でもここのナントでの処刑方法は一番非人道的、最悪なものでした。その方法とは裸にされた男女が縛られたままロワール 川に投げ込まれて溺死させられるというもので、その方法には「共和国の結婚」という名前がついています。これを主導したのがジャコパンのジャンバティストカリエです。そのカリエはテルミドールのクーデターでは、ロベスピエールの失脚を狙いそのあとの座に座ろうと暗躍しましたが、結局の後の調べで大量殺戮の指導者であることが発覚し処刑されています。

 

5)奴隷貿易の拠点として

 

 

3、現在のナントとロワール 

1)ジュール・ヴェルヌとナント

「15少年漂流記」、「海底2万里」、「80日間世界一周」など誰もが子供の頃に1度は読んで胸を踊らされたこと思います。これら空想冒険小説を残したジューニヴェヌは、19世紀ここナント(しかも「何と!」ロワール の中洲のフェイド島です)で生まれ育ちました。

SF小説というジャンルを初名して普及させた功績は偉大です。ヴェルヌの想像力やアイデアなど今でも全く色焦ることはありません。考えたことのほとんどは21世紀の現代に実原されています。19世記のナントは交易で栄えてフランスのみならず世界の中心でした。多くの刺激がそう像力たくましい少年ヴェルヌをそ立てたのではないかと思います。

ディズニーシーのミステリアスアイランドの地底探検(センターオブジアース)やノーチラス号、ネモ船長などはジュールヴェルヌの作品に因んで設定されています。まさにあのイメージ、近未来的でノスタルジックな世界です。

ナントにはジューヌベルヌのテーマパークがあります。「レ・マシーン・ド・リル」です。機械仕掛けの象などアトラクションも盛りだくさんです。

レ・マシーン・ド・リル(Les Machines de l’île)
http://www.lesmachines-nantes.fr/

ラグビー 観戦の空き時間には是非訪れてみたいと思います。

 

2)LU派かBN派か

これでピンときた人はかなりのお菓子好きです。L UもBNも世界的に有名なフランスのビスケットです。日本では日本の製造メーカーが強いのであまり見かけないかもしれませんがフランス中どこでも見かけます。

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ナントは三角貿易による砂糖の輸入精製が盛んでした。それでお菓子産業も盛んになったのだと思います。甘い砂糖の影には苦い奴隷貿易の影があることも忘れてはいけません。

イングランド のリバプール と並んで、奴隷貿易の中心はここナントでした。奴隷の護送船に武器を詰め込んでナントを出航し、アフリカで武器を売り捌きます。武器を買ったアフリカ人はその武器で戦争を行い、多くの捕虜をとります。奴隷船は、その捕虜を大量に買いつけて船に押し込みアメリカ新大陸に向かいます。その都中で半数の穀人は命を落とします。生き残ったのは健康な奴隷達だけとなり、新大陸のプランテーションに売られます。プランテーションではサトウキビ栽培の労働力tして酷使され、サトウが奴隷戦に積まれて、ナントに運びこまれるという算段です、。

 

 

1)行政区分のロワール

フランス政府はフランスの地方の活性化を目して、数県を一つにした経済圏構想で国づくりをしています。この際にナントはブリターニュから切り離され、ロワール 経済圏に括られることになりました。
ロワール 経済圏の中心がナントになります。
ロワール 川流域は、フランスの裏庭と呼ばれる古城が多く世界遺産にもなり観光資源に恵まれています、また、ロワール 川流域のリーズナブルで特徴あるワインの生産でも有名です

ロワール 川流域のワインと古城に関しては、こちらを参照ください こちらも続きです

ナントのワインのブドウの品種はミュスカです。

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