ワールドカップでの出会いの数々
私のワールドカップはジャパンの応援に来ただけではありません。ワールドカップに参加に来たのです。世界で戦争がおこっている今日だからこそこのワールドカップで世界の人が集まり、交流して、文化に触れて、一緒に肩を組、歌い、ビールを酌み交わす。その喜びに満ちた平和な空間と時間を共有することこそアピールなのです。
そんな中、様々な人との出会いがありました。それはそれは世界の愉快な人達でした。ラグビーがあればこその出会いです。
目次
1,ボルドーの試合前の幸せな正しいフランスの家族
一人でビールを飲みながら、芝生に腰をおろし、ボルドーのジョージア、フィジー戦を待っているときのことです。一組の幸せな家族に出会いました。お父さんとおじいちゃんと、母親と8歳くらいの息子の4人家族です。お母さんはちょっとふくよかで、笑顔が耐えません。自分のフェイスペイントは終わり、ほかの3人に丁寧にフェイスペイントをほどこしています。よく見ると、フェイスペイントはお父さんと息子はジョージアで、母親と爺さんがフィジーなのです。なぜなのか、声をかけてみました。すると、この近くの町に住んでいるとのことです。このチケットが入ったのでとても楽しみにしている、両チームとも応援したい。ということでした。ちょっとシャイな男の子は強がっていましたが、実はラグビーを始めたばかりで、まだ本当のラグビーをさせてもらっていないじゃないかと言われています(タグラグビーなんでしょう)。おじいちゃんもお父さんもじつは世界のラグビーを見るのは初めてだと興奮していました。(英語の通訳はすべてお母さんの役目)。こういうしあわせな家族のためにこそワールドカップがあるのだ。と実感した次第です。
2,ナントの宿のウェールズ人たち(その1)
ナントではスタジアム近くのボートハウスに宿を取りました。ここで素敵なウェールズ人たちに出会いました。こちらは不安いっぱいで真っ暗な中やっと宿を見つけたところ、宿の中もうすでにフレンドリーな雰囲気にあふれています。宿のオーナーかと勘違いしましたが、みんな私達と同様の客人でした。宿は5部屋しかなく、ウェールズ応援用にとリヨンで購入したリーキを見せたところ全員大ウケでもう大爆笑が止まりません。それにしてもウェールズ人はみんな歌が好きでまたうまいのです。さすがトムジョーンズを排出した国。一緒に夜が更けるまで、「カロラン」、「ブレッドオブヘブン」、「ランドオブマイファーザー」を歌いました。私達日本人もギターを借りて「乾杯」をうたって歌でお返しをしました。足の悪いリンさんと旦那の二人はウェールズ戦の当日、11時きっかりにファンゾーンでフラッシュモブをやるんだと語っていました。本当にこの2人は本当に翌日ナントのカルーセルの近くで、「ランドオブマイファーザー」の大合唱を仕掛けたのです。最終的には100人ほどのウェールズ人の大合唱になりました。その指揮をしていたのがその旦那のほうでした。駆けつけた私もその合唱に加わりました。翌日たまたま再会することができましたが、もうおたがい涙を流しなら別れを惜しみました。
3,ナントのボートハウスのウェールズ人たち(その2)
実はこのボートハウスでそんなフレンドリーな雰囲気を作っていたのはもう一組の仲睦まじいウェールズからの夫婦です。私のリーキを手に持っては大笑いをしながら何度も同じ歌をうたいます。次の日に持ってきた折り紙で日本の折り鶴を教えてやりました。奥さんは習ったことがあるとのことで上手です。旦那のほうには一から教えてやり、2人友日本人以上にかっこいい折り鶴を完成させました。そしてその夜は日本人とウェールズ人とでの大バーベキュー大会になりました。すべてこの夫婦が買い出しから調理までやってくれました。応援用の極太のリーキも、ウェールズ風に調理されみんなの腹の中にめでたく収まりました。(本当はねぎ焼きにして塩か醤油でシンプルに食べたかったのですが・・・)。なぜリーキなのかと尋ねると、「知らんがな」といいながら、一生懸命ネットで調べてくれます。答えは戦いの時に頭に刺したということ、(そのウェキペディアの話なら知っているだけどな。それだけではない気がするので訪ねたのにな。)謎のリーキのことはウェールズ人自身もよく知らないんだなと思った次第です。
4.モンマルトルの気さくなスペインの夫婦
モンマルトルのテアトル広場、丘のぼりの足を休めるために、カフェでビールを飲んでいると隣に私と同年代の夫婦が座りました。どこらか来たのかと声をかけると、気さくな人で「スペインだよ」いうことでした。「ラグビーで日本からきている」といったら、ちょっと興味深そうだったけど、「スペインではサッカーなんだよな」と、言い張ってきます。「ホントかよとカマをかける」と、証拠を見せるからといってスマホのサッカーの写真を探して次ぐ次に自慢気に見せてくれました。しかし、何枚かめくったところで、女性の大胆なヌード写真がでてくるではありませんか。「おいいまのそれなんだよ、もっと見せろ」というと、慌てふためいて、手で隠し、隣のカミさんにバレては困る、「トップシークレットだ」といいます。二人でもう大笑いです。少したったあと、奥さんが旦那になぜ大笑いだったのか聞いたみたいです、その旦那はカミさんに実はこういうわけなんだよと正直に答えたようでした(スペイン語です)。すると奥さんのほうは顔をかくして「まあ恥ずかしい(たぶん)」と言いながら、今度は3人で大笑いです。「あんたは正直ものだね」っていってやりました。これもラグビーが取り持った愉快な話です。
5,ルーブル美術館の大興奮な若い係員の話
ルーブル美術館へは。ストのためか2時間半もまってはいれたのですが、どう探してもお目当てのドラクロアの「民衆を率いる自由の女神」が見つかりません。また、ダヴィンチの「聖ヨハネ」も見つかりません。ストのせいなのか、係員も少ないのでどうしてなのか聞き出すこともできません。あるき回って、やっとの思いで制服の係員をみつけました。というより、彼のほうが、ジャパンのジャージ姿の私達を見つけたのでした。彼は他の見学者に囲まれ汗をかきながら対応していたのにその見学者の対応はソッチノケで、大興奮状態でこちらに飛んできて話しかけてきます。こちらの質問などもう上の空で、「日本のラグビーは素晴らしい。」「日本のジャージがどうしても欲しい。」「ジャージを交換してくれないか」と捲し立てます。「無理だ」というと、¥どこにも売っていないんだ。なんとかほしい、どうしてもほしい。」「このルーブルの上着にルーブルのIDカードもつけるからと交換してくれ」と、食い下がってきます。「おいおいそれはだめだろ仕事をしろよな。」
ところで肝心のドラクロアの作品については。日本語で「シューフクチュー」の一言でおしまいでした。ダビンチの作品も「ほかのビジュツカン」の一言でした。絵が見れなかったのは残念だったけど、それ以上に面白い出会いでした。
6,南アの歯の欠けた応援団長の話
マルセイユの南アトンガ戦はゴール前5mライン上の前から8列目という最高の席で観戦できました。4方は見上げるばかりの人の絶壁。7万人を飲み込む巨大なスタジアム。そのなかでもこの位置でのスクラムやモール、ラインアウトなど、本気の肉弾戦を何度も体感できるのは、グランドの四隅に陣取れたほんの数十人という特等席です。
しかし、ここではそれ以上の体験ができました。よくラグビー中継で見かける歯のかけた南アの応援団長がすぐそばにいたのです。彼は一生懸命場を盛り上げて、ウェーブなどを起こしています。ハーフタイムには私は彼のもとに駆け寄り、私と2人で、南アの国歌をうたい始めました。すると周りの南アの人も歌に加わります。日本人が南アのジャージ姿で南アの歌を歌うなんて珍しいのか周囲からは大注目です。ゲーム終了後今度は彼のほうでも私をみつけての「ショショローザ」です。誰かが「ショショローザ」、「ウミヤマレーカ」というともうだれももう止められません。数十人の大合唱がずっとずっと続きます。
7,君が代が歌えるジョージア人の話
ジョージア、フィジー戦の席も特等席でした。どうしてこんな席が取れたのか不思議です。赤毛氈(実は青いので青毛氈)が敷かれています。正面スタンドの貴賓席です。後ろのガラス貼りの向こうは豪華なパーティー会場です。ジョージアのゲームに出場しない選手たちも近くに座っています。
ゲームはものすごい肉弾戦で、ジョージアの選手は体を当てまくり次から次にバタバタと負傷交代していきます。ジョージア人の魂(ソウル)を感じたゲームとなりました。
そのハーフタイムにトイレに行く際に会ったジョージア人にもびっくりです。「ジョージアすごい、私はジョージアの国歌を歌えるよ」いって、「セミダーサーサムソブロ」と歌い始めると、彼は英語で「俺は君が代を歌えるよ」いって、なんと日本語で君が代を歌い始めるのです。おわったら会おうぜといって席にもどったのですが、会うことはできませんでした。いったい彼は何者なんだ。ゲームもファンもジョージア人、恐るべし。
8,マントンのエリス墓参での南アの親子の話
今回のフランス訪問の一つのハイライトは、マントンにあるエリス少年の墓の墓参でした。地中海を望む丘の上の教会の墓地にその場所はあるという小林信緑郎さんの話。それしか情報がなかったので、マントンの観光案内所で「エリス少年の墓」に行きたいと聞いて見たところ、「わからない」の一点張り繰り返しです。ラグビーの話をすると「ああウィリアムウェブエリス」ね。といって場所を丁寧に教えてくれました。考えてみれば死んだ時はもう少年ではないし、エリスなんて子供はどこにもいるよな。本名を言えばすぐわかった話だったのでした。
この墓は本当に海の見える丘の教会の墓地ににありました。途中の階段や坂は息が切れるほどです。途中の坂道で道案内をしてくれたのが、南アからやってきたという親子です。父親は私と同年代。息子はもう38歳です。父のほうは20年前に一度この場所にやってきたことがあるというので道は覚えているとのことです。どうしても息子にもこの場所を案内したい一心でワールドカップの機会にこの場所に足を運んだということでした。また日本からも同じく墓参に来る人がいるなんてびっくりしているようでした。南アの国歌を私と3人で歌いエリス少年に捧げました。息子はよく歌詞をおぼえていましたが、親父の方はうろ覚えです。(そうだよな長いアパルトヘイト時代に生きて、この曲が国歌になってからはまだ28年しかたっていないんだもんなと実感しました。)われらもアルゼンチン戦の必勝を祈願し「君が代」を奉納したのは言うまでもありません。