「ラグビーを哲学する」のシリーズは、多くの哲学思想にラグビーを当てはめて考えようとする試みです。ラグビーの本質をよく知ることにもなりますが、同時に哲学のおさらいになり、普段の生活を見直してみることにもつながっていくかなと思っています。
ソシュールについて
ソシュールは1857年スイスに生まれ、「近代言語学の父」と呼ばれる言語学者で、それまでの言語学をすっかり変えてしまいました。
それまでの言語学は、フランス語とかラテン語とかある国の言葉を考えるものでしたが、ソシュールは言語そのものを考えたのです。
そして、認識論的にも新しい地平を切り開きました。さらにレヴィストロース など後の構造主義に大きな影響を与えました。
実はソシュールは著書を残しておらず、有名な「一般言語学講義」もその名の通り、ジュネーブ大学の3回の講義を学生たちがまとめて出版したものです。
まず、ソシュールは、言語学を「通時言語学」と、「共時言語学」に分けます。
通時言語学は、特定の言語の歴史的変化の側面を考えることで、共時言語学は同じ時代の言語の構造を考えることです。ソシュールの言語学は共時言語も同時に研究したところに特徴があります。
共時言語学おいては、言語の社会的側面(=ラング)と言語の個人的側面=パロール)現実に話す行為そのものにわけ、ラングを主な対象にしました。実際に話す行為や内容ではなく、話す時の共有の約束事などに光を当てます。
ソシュールの記号論
そして、言語を「シニフィアン」と「シニフェ」という側面で捉えます。シニフィアンは意味しているもの表しているもの=音節などを指し、シニフェは意味されるもの=概念を指します。
例えば犬ならイヌという言葉が「シニフィアン」で、犬という概念が「シニフェ」になります。日本語では犬ですが、英語のシニフィアンはDOGになります。ドイツ語なら「ハウンド」です。イニシェとイニシアンは表裏一体であり、対になっています。このシニシェとシニフィアンの対を「シーニュ=記号」と呼びます。こうした考えはその後の記号論の元になっています。
しかし、犬のイニシェがイヌである必然性はなく、そこは恣意的(何らかの力が働いた結果)であると指摘します。
チワワやスピッツ、秋田犬など様々な犬がいますが、私たちは犬という共有概念を持っています。狼は姿かたちは犬に似ているけれど、狼と犬は区別した動物の種類であることも認識しています。
人は言語能力(ランガージュ)を持っていて、あるものや、現象や、概念に名前をつけることで、それを他のものと違うと区別されて、その存在を捉えられると説きます。
すなわち言葉と認識は同時に生まれるということです。
犬の話によれば、四つ足の小型の動物のうち、まず猫を違った概念の動物と決めることで犬らしきものの概念ができ、その中から狼らしき概念を除くことで犬の概念が決まり、その時に犬と名付けられたのです。
したがって、言語は大きな塊の中を細かく分解していくことで他のものと違うということで新たな概念を示しています。
「個は全体から振り分けられる」のです。上位概念のうちか分けることで少なくとも2つの概念ができます。
言葉は世界に先立つのです。言葉の差異のフィルターがないと世界は認識できないのです。
したがって、名前がついた瞬間に概念も認識できるのです。上位概念から切り分けられて下位概念が決まるのでそこに構造が存在します。私たちはその構造からは抜けれらないのです。
食文化の例など
例えば食文化を考えるとわかりやすいです、米の表現は、日本語では田んぼでは稲、炊く前は米、炊いた後はご飯、冷めれば冷飯ですが、英語では全てRICEです。逆に日本語では牛の肉は牛肉ですが、欧米ではサーロインとかリブとかフィレとか部位でよびます。タコやイカやエイは日本では全く異なった海の生き物ですが、英語ではまとめてデビルフィッシュと言います。それらはまとめて(日本人には理解できない、)忌まわしい魚なのです。ワカメや海苔やヒジキなどは、海外では全てSeaweedで片付けられてしまいます。言葉が文化を作っているのです、言葉が世界に先立つのです。うま味の概念は日本食にしかありません。
また、日本語では緑色の表現の言葉がたくさんあります。これは、日本が緑豊かな自然があり、自然を大切に自然と一体となった暮らしをする文化をの構造を表すものです。
浅黄色、若草色、深緑、鶯色、若竹色、青磁色、萌黄色などなど
雨についてもそうです
五月雨、こぬか雨、霧雨、土砂降り、狐の嫁入り、小雨、氷雨、などなど
さらに、日本での兄弟は兄と弟、姉妹は姉か妹という概念ですが、英語では Broter Sisterであり、それだけでは年上年下の関係はわかりません。日本社会では、どちらら年上かどうかが重要なのです。
そういう細かな言葉がないところには、そのような世界観がないのです。
思い出したこと
以上の話を聞いた時に、下記のようなことを次々に思い出しました。
1、トマソンという言葉をご存知でしょうか
役に立っていなさそうなのになぜかそこにあるもので、主にそんな建築物などをよびます。街中をブラブラしていると、途中までしかない階段とか、階段のない2回の玄関ドアとか、そんな不思議な建築物に遭遇することがしばしばあります。そんな不思議なものに最初は名前がなかったのに、それに80年代初期に「トマソン」という名をつけた途端に、トマソンとしか認識するしかなくなったのです。(トマソンの語源はその当時の巨人軍の外人助っ人トマソンからです)
2、次は卓球の話になります。
最近は何かとお騒がせの福原愛さんですが、中国でトレーニングをしてびっくりして、必死に中国語を覚えたということです。
なぜかというと、中国の卓球には、卓球の用語が日本の卓球の用語の数十倍存在するというのです。
例えは、日本で卓球のスマッシュは、強打、ミドル、弱い 程度の区別しかないのに、中国の卓球は30から10段界刻みで120くらいまでの段階があるのだそうです。さらに、スマッシュは「発死力」で、バックハンドのスマッシュは「抜刀」、卓球のテクニックの激しさの概念がそのまま言葉につながっています。生死をかけるような恐ろしい言葉です。それほど卓球に関しての文化レベル、真剣さの高さを感じます。中国の卓球が強いのはそんな側面があるのです。
3、ラグビーでも言語を考えると興味深いと思います。
1)新しいアタック方法やディフェンスの陣形などは最初は何だかわかりません。しかしそれに名前がついた瞬間にその戦法は共有できます。80年代の大東大のドリフトディフェンスも最初は何だかわかりませんでした。エディジャパンのシェイプもそうでした。最近は言葉化され、伝わるのも早くなりました。PODなどは高校生でも普通に行っています。
2)ボーデンバレットやパナソニックの山沢拓哉は右足でも左足でもキックを蹴れて、しかもそのキックの種類は各々数十種はあるとのことです。
ハイパンだけでも数種類あります。無回転キック、逆回転キック、切れる回転、伸びる回転などです。足の先で蹴ったり、外側の甲で蹴ったりします。高さと落ちる場所も相手に撮らせて自らタックルするキックとか、自分で取りに行くキックとか、グラバーでも3回目のバウンドで跳ねるキックとか、ワンバンドでタッチに切れる回転とかがあるということです。
普通にこなせる技術を持った選手が少なすぎて、一般的なスキルになっていないので、まだ明確な名前がついていません。でも名前がついた瞬間に概念が共有して一般になっていくのでしょう
3)日本ではパスの練習、ランの練習などを個別に行います。せいぜいランパスくらいでしょう(これは違った効果を期待する練習なのしょうけど)。
ニュージランドにパスだけの練習やランだけの練習はないそうです。あるのは、パス&フォロー、キャッチ&パス、キャッチ&ステップなどです。英語のアンドはブレッド&バターのアンドです。別々のものではなくプレーの流れが一体のものという概念なのです。こういった言葉からあのオールブラックスのラグビー が作られるのと思います。
スポーツ関係では、まだまだありそうです。
言葉を考えてみるのは非常に興味深いです。