「ラグビーの世界史」を読む 第三回 第二部 五カ国対抗に向けて

ラグビーの世界史 楕円球をめぐる200年 トニーコリンズ著 北代美和子訳 白水社

 

 

今回はその三回目 第二部五カ国対抗に向けて

です

各章でスコットランド、アイルランド、ウェールズ 、フランスでのラグビーの黎明期から初期の発展までが描かれます。それぞれ副題も見事です。

残念なことにコリンズの書には写真が少ないので、私が参考になる写真を追加して紹介します。(写真は70年前以上のものになり、今は既にパブリックドメインになっています)

第5章 スコットランド
(ラグビーフットボール二つの国の真のスポーツ)
第6章 アイルランド
(国のアイデンティティ)
第7章ウェールズ
(ドラゴンの咆哮)
第8章 フランス
(男爵、赤い処女、ラグビーのベルエポック)

第5章 スコットランド
(ラグビーフットボール二つの国の真のスポーツ)

 

ラグビー史でも重要な世界初のテストマッチの実現の経緯が語られます。

この章はこんな書き出しで始まります。

エディンバラは春がいちばんいいと言われている。明るく晴れ渡り、涼しい東 風が心地よい。1871年3月27日月曜日は、間も無く街が目撃する歴史的な出来事を歓迎するかのように、この評判の正しいことを証明していた。

そのきっかけは先にサッカーの初のテストマッチが前年にロンドンで行われ、そそれはスコットランドが負けました。その為に、翌年にエジンバラで「今度はラグビーでリベンジ」となったわけです。

(1871年3月27日)

イングランド代表はあまり練習もせず、スコットランドに半分物見遊山気分で遠征したらしいです。このゲームはサッカーのリベンジに燃え、準備万端だったスコットランドが勝利します。


(1871年のスコットランドチーム)

翌年は、イングランドのロンドン郊外ジオーバルでイングランドが勝利します。今度はイングランドも意地がありました。


(当時のTHEオーバル、主にクリケット場です)

その翌年はグラスゴーでイングランドが勝利し2連勝します。この時の有名な話は勝利に喜んだイングランドの選手が、郵便車を強奪して市内を走り回ったということです。その後語り草になっています。

(当時のスコットランドの郵便車)

その顛末はこの本ではこんな風に書かれています。

氏名不詳のイングランドフォワードが試合の翌朝近く、酔っ払って郵便車を駅まで押しているところを見つかったとき、その後婉曲的に「ハイジンクス」と呼ばれる酒を飲んでの乱痴気騒ぎの伝統を確立した。チームメートが警察が来る前に郵便車をそこに置いてホテルに帰るように説得し、幸いことなきを得た。

ハイジンクス(high jinks=から騒ぎ、騒ぎすぎ)

事実は郵便車を運転して暴走させたわけではないようですね。しかし、「単に押していただけ」というのも何気にすごいです。スクラムをしているつもりだったのでしょうか?(伝説や伝承は事実でないにしてもそのままにしておいておらった方が言い様に思います。真実を知ることも大事ですが、私たちは単なるファンであって歴史家ではないのですから)

 

ここで話を元に戻しますが、最初はサッカーのテストマッチがあり、それのリベンジマッチとしてラグビーのテストマッチが行われたという歴史的事実です。トニーコリンズ氏の指摘したいことは、このような対抗意識のダイナミズムからラグビーの人気が高まり、発展を遂げたという事実でしょう。しかし、サッカーがいつも時代の先端を行っていて、保守的なラグビーがその後を追いかけるということがこれからも歴史をつい重ねていきます。

この章はさらに、スコットランドのボーダーズ州に起源を発する七人制ラグビーにも触れられています。

第6章 アイルランド
(国のアイデンティティ)

 

アイルランドという国の歴史は、いつでもチャンスに恵まれながらそのチャンスを生かしきれないということの繰り返しです。どこかで誰か足を引っ張り、勘違いや事件が起こり、チャンスを逃してしまいます。

もともとプロテスタント系の学校でラグビーは行われており、その学校にもカソリック系の生徒の入学が認められてラグビー人気が一時的に高まります。またマンスターやコナートなど各地方の学校でもラグビー人気は高まり対抗戦なども行われ、プロ化の問題もイングランドのようなアマチュア問題のすったもんだがなく順風満帆に思えました。

そして、アイルランドラグビー協会は生まれます。
最初のテストマッチは、1875年2月15日ロンドンのジオーバルでした。

ジオーバルは「巨大な泥沼の様相を呈していた」誰もが巨大などぶさらいとなるのを疑わなかった。
(中t略)

試合そのものは惨敗以外を期待していたのは最も楽天的なアイルランドファンしかいなかった。アイルランドの緑と白のシャツが、綿でなくて重いウールで仕立てていたことさえ、濡れた泥の中では不利に働いた。


(最初のアイルランド代表、ジャージはウールの縞縞でした)

(1898年のアイルランド代表、ジャージは綿です)

 

しかし、アイルランド民族意識が高まり、アイルランドの独立紛争が始まります。この独立運動から戦争に至る戦いは民族意識や宗教上の問題もあり、根が深い問題になります。(最終的には北アイルランドの分断を招きますが、その前にアイルランド協会ができており、代表チームは現在も統一したチームのままです)

(ゲーリックフットボールについてですが、私は民族固有のフットボールだとばかり勝手に思っていました。民族固有のスポーツはハーリングで、ゲーリックフットボールは、ラグビー人気に対して、他国の文化を容認しない人たちが考え出した新しいスポーツだとうことを初めて知りました。だからこそゲーックフットボールは一つの象徴なのですね(勉強不足でした))

(ハーリングのボール)

そんなわけで、国内の問題でラグビーがプロテスタントのためのスポーツという位置付けで、カソリックはゲーリックフットボールを行い一時期は完全に分裂状態になってしまいます。

その上この章の最後にあるように、紛争も続きラグビーも行われなくなります。

IRFU(アイルランドラグビー協会)からは、アルスター義勇軍に200名ほど参加することになり、そこで悲劇的事件が勃発します。

1916年4月24日、義勇軍は1日の訓練の後、ダブリンまで徒歩で戻った。
ラグビーとクリケットでトップに立つIRFU会長フランクブラウニングに率いられ、旗を振り太鼓を叩きながらダブリンに入る。(中略)
義勇軍が大運河に差し掛かった時に、政府の増援隊と勘違いした共和軍が射撃を始めた。ブラウニングほか3名が死亡し、さらに3名が重傷を受けた。

BBCの記事も参照ください

この日が「イースター蜂起」の日でダブリン中は騒ぎになっていることを、ブラウニングは知らなかったのでした。

Irish Volunteers barricade Townsend Street, Dublin, (Photo by Hulton Archive/Getty Images)

コリンズ氏が指摘しておきたいことは、アイルランドは常に政治や闘争があって、ラグビーなどスポーツもその社会の流れの中で翻弄されていくという歴史的事実です。

このアイルランドの章の始まりは、

 

そしてこう締めくくられます。

第7章ウェールズ
(ドラゴンの咆哮)

ウェールズのラグビーも最初は、ランピターのセントデイヴィス大学というエリートの学校にから導入されました。しかし、ウェールズの環境がイングランドやスコットランドと違っていたのは、ウェールズが工業化の真っ只中であったことです。大学に収まることなく、炭鉱労働者や工場の工員の中での余暇の楽しみとしてラグビーは盛んになっていきます。そして、ラグビーは単なるスポーツではなく大衆文化の中心に成長します。

(ウェールズの炭鉱労働者)

 

この章はリースゲイブの話から始まります。リースゲイブは1905年のオールブラックスの英国遠征の際の、伝説のアームスパークで、ボブディーンズにタックルをしてトライを阻止して唯一の一勝をあげることに貢献したヒーローです。ウェールズのラグビー選手のほとんどは労働者階級で、ゲイブもその中の一人でした。当時のレフリーは上流者階級が多く、かなり不当な笛を吹かれたり、差別的なことを言われたりしました。

さらにウェールズではカリスマ性を持つバックスの選手、アーサーグールドの活躍によって、アーサーグールドが報酬として土地を受け取ったという疑惑が起き、アマチュアリズムを徹底するイングランド協会との衝突となります。しかし、イングランド協会は、政治的判断でグールドの追放はなしということで決着します。「グールド妥協」から、ウェールズはブートマネーと支払い続けます。

(ここでもう一つ注目すべきは、ウェールズが、既に八人制のフォワードシステムで、バックスを多くしたフォーメーションを組んでいたことです。スタンドオフを中心にボールをよく動かすという、1970年代以降のウェールズのラグビースタイルがすでに志向されています。
ウェールズのラグビーが スタンドオフの製造工場となるのは、もう少し時がたってからのことになります。)

そして1904年から5年のオールブラックスの英国遠征での、アームスパークのゲームで、ウェールズのラグビー人気は頂点を迎えます。連戦連勝のオールブラックスに対し、唯一黒星をつけたのがウェールズでした。ボブディーンズの幻のトライとして伝説になっています。この時には既に、オールブラックスのハカに対して、ウェールズ「ヘンウラッドウーナダイ(我が祖父の地)」が大合唱されたと言います。

 

第8章 フランス
(男爵、赤い処女、ラグビーのベルエポック)

ここで男爵というのはクーベルタン男爵のことです。ご存知オリンピックの父です。

 

フランス国内での初のフランス選手権は、ラシンとスタッドフランセの間で行われました。場所はブルゴーニュの森の中のこの時にレフリーを務めたのがこのクーベルタン男爵です。クーベルタン男爵は、英国でのアーノルドパーマーの姜陸理論に影響を受けて、ラグビーをフランスに持ち込みます。(オリンピックの開催を進めるのはその後の功績になります)。

これはただの試合ではなかった。フランスのエリート階級の多くにとっては重要な社交イベントだった。両チームの選手のバックグランドをざっと見れば、ペルー大統領の甥のガンダモ兄弟に加え、他に四人の選手が苗字の前に貴族を表す「ド」をつけていた。


(当時のラシンチーム)


(スタッドフランセ対ラシン)

その後、ラグビー人気は、南西部アキテーヌのボルドーが中心になります。
ボルドーは英国のワイン商人は移り住んでいますので、ラグビーが盛んになるのは必然だったかもしれません。

1898年にはボルドーのスタッドボルドレが初めてフランス選手権でスタッドフランセと対決します。南西部は歴史的にも常にパリ中心への対抗意識があります。さらにラグビーはボルドーから周辺へと急速に広がります。

(スタッドボルドレ)

急速にラグビーの要塞になったのは、北はボルドーから南はススペインバスク地方、東西はピレネー山脈から、地中海沿岸のペルピニャンまでの南西部であった。この地域は「ロバリー」ー楕円球の土地ーとして知られるようになる

ロバリー対パリの構図が生まれます。
この地ではアマチュアリズムに関しては最初から重要視していなく、万を超える観客数は、ラグビーに巨額の金をもたらします。
ボルドーからガロンヌ川を遡ったすタッドトゥルーザンはのちに赤のジャージにちなんで「赤い処女」のニックネームが付けられます。

 

クーベルタン男爵の意図通りに、1900年のオリンピックではラグビーが採用されます。ドイツとフランスと英国の3チームが参加してフランスが金メダルを取ります。ドイツはフランクフルトのチームで、英国はバーミンガムの単独チームでした。

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