ラグビーと資本論 渋沢栄一とナポレオン3世のパリ

はじめに

今や、週末のラグビーのチケットがなかなか手に入りません。今週末も友人の努力でなんとか熊谷のゴールポスト裏の席を確保できた次第です。
もちろんコロナ禍の影響なのですが、そのコロナ化の蔓延の原因の一つもグローバル世界資本主義の行き過ぎ結果なのでしょう。もはやのんびりビールを飲みながら芝生に寝転んでラグビー観戦する週末はもうありません。コロナが収束したにしても、ラグビーが地域のクラブ化(=コモン)を果たさない限り、そのようなゆったりとした週末はもうこないものと覚悟しなけけばならないと思います。すでに熊谷のバックスタンドの芝生席はもうありません。

前回では、斉藤幸平氏のベストセラー「新人生の資本論」を教科書に、行き過ぎたr>gとなる資本主義世界が限界に来ている現在で、完全なプロ化に向かう新リーグ構想について考えてみました。(参照

日本も含め、世界の資本主義はなぜここまできてしまったのでしょう。最初に日本に資本主義を根付かせたのは、そのラグビータウン熊谷にほど近い深谷市出身の渋沢栄一とされています。ご存知の通り、渋沢栄一は「日本の資本主義の父」と呼ばれているしかりです。渋沢栄一に責任があったのでしょうか、いや全く違います。

渋沢栄一の目指したもの

そもそも渋沢栄一の目指したものは「資本主義」でなく、「合本主義(がっぽんしゅぎ)」であると説明しています。渋沢は私利私欲でなくあくまでも公益のためにだけ、みんなで資金を集めて600近い会社を次々に起こしました。商品やサービスで公の利益に貢献し、利益も分配するか、次の公益のために使いました。現代のクラウドファンディングのようです。これは、斉藤幸平氏の目指すとことの富の「コモン 化」と相違ないです。渋沢栄一は当初から、資本主義が金儲けだけに走ってしまうことの危険性を指摘しており、金儲けと道徳を両立すべきとといていますし、生涯をとうしてそれを実践し続けました。渋沢と対極で、独占と専制的な経営をしていた三菱の岩崎弥太郎との海運業をめぐる大喧嘩の1件は有名な話です。そしてその教えは「論語と算盤」という書籍に残されています。当時の渋沢にしてみれば、ピケティの言うような金が金を産むだけの、行き過ぎた資本主義社会になるなんて思ってもみなかったことでしょう。

1867年パリ万博

渋沢は1867年のパリ万博に幕府の使節団の一員参加しました。この時の経験や知識が帰国後の活動の源泉になっています。渋沢はそのパリで西洋の近代化に初めて触れます。ただ驚いて終わるだけでなく、様々な経済、社会の仕組みを吸収しました。身分のない社会、銀行制度、鉄道網、教育、債権の運用など特に商業や産業が卑しいものでなく、社会を動かしているという実態なども肌で知り理想と映ったに違いありません。

 

そしてその1867年という年は、51歳となったマルクスがエンゲルスの手をかりながら「資本論」第一部を出版したその年でもあるのです。

OpenClipart-Vectors / Pixabay

まずは、若き渋沢が影響を受けたパリ万博があった19世紀中頃の当時のパリがどのようだったかのから、探ってみたいと思います。

ナポレオン3世の時代

フランスは、ルイナポレオンによる第二帝政時代です。ルイナポレオンは、第二共和制の元で選挙で圧倒的な得票数で大統領に就任します。さらに1851年にクーデターを起こし、皇帝に就任します。産業こそが国を富ませると考えで、ペルール兄弟による銀行(クレディエモビリエ)や鉄道網整備、シュバリエによる自由貿易の推進、ジョルジュオスマンのパリの市街改造、などなどまさに産業革命を一気に行いました。その大集成が渋沢の参加した1867年のパリ万博でした。まさにルイナポレオンの絶頂の時でした。それまでのパリはそれこそ小さな路地が無数に走り、窓から糞尿がまかれ、汚いだけでなく、不潔で様々な感染症の温床になっていました。それが現在の素晴らしく綺麗な街になったのはナポレオン3世です。万博ではワインの格付けも行われ、ボルドーのシャトーの格付けがこの時期まり、今までほとんど変わっていません。

また、このような時代が動いている時には、様々な異能な才能が花開きます。写真家で気球乗りのナダール。その友達のSFの父ジューヌヴェルヌ、画家のギュスターブクルーペ。ショパンの恋人でもあったジョルジュサンドなどなど。マルクスはこれらの異才達を「ルンペンプロレタリアート」と一喝しましたが、彼ら彼女達のエピソードは、奇想天外で魅力的です。(これに関しては別なのちに記事で紹介したいと思います)


気球に乗って撮影するナダール、ドーミエ画

そして渋沢栄一も奇才の中の一人にあげてもおかしくないと思います。


2枚とも1967年の渋沢、パリで撮影

サンシモン主義とは

このようなナポレオン3世の政策の基になった考え方は「サンシモン主義」です
サンシモン自身はすでに1825年に死去しており、その弟子のオーギュストコントによってまとめられます。この考えはフォローワーも多く一般に広まりました。新しい宗教の一派にも祀られ、本当に教会(サンシモン教会)ができたほどです。当時のフランスの産業革命の推進に貢献しました。


サンシモン主義は次の3つに集約されます。

1、社会の基盤は産業で産業が富の源泉である
2、政府は社会の代理人であるに過ぎない
3、社会の指導者は産業人である

つまり産業第一主義です。産業人とは農民、商工業者、商人で、資本家や貴族などブルジョアジーは含まれていません。政府やブルジョアジーは、産業人に対して敬意を払いその活動を支援する存在であるべきと解きます。

フランスの近代化を成し遂げ、今の美しいパリの街並みを作った、ナポレオン3世ですが、世の中ではすこぶる評判が悪いようです。ナポレオン3世が1851年クーデターにより皇帝に就任すると、マルクスはその著書「ルイナポレオンのブリュメール18日」で「2度目ともなれば茶番」であると痛烈な批判をします。同じくヴィクトルユゴーは「小ナポレオン」と皮肉ります。現在でも政治用語として、決め手のない拮抗した2局対立構造の中で、関係ない第3者が現れ、熱狂的に民衆の支持を集め専制的な政治を行うことを、「ボナパリズム」と言います。

 

マルクスは、サンシモンに対しても、理想論だけで理論や筋道が描かれていない「空想社会主義者」と批判、論破され、そのレッテルが今でも残っています。

ナポレン3世時代の末路

ナポレオン3世は、国を富ませるために対外戦争に明け暮れ、挙句の果てにプロイセンのビスマルクの挑発に乗り、1870年普仏戦争に突入します。プロイセンの前にフランスは敗走を続け、パリは何ヶ月もの間包囲されます。ついにプロイセンは占領したベルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ帝国成立を宣言します。閉鎖されたパリでは、困窮を極め、象の肉まで食べなければないほどでした。そしてついにフランス国境の町セダン(この町の名は箱型の車の形態を示す名となっています)の戦いで捕虜になってしまいます。なんとも情けない敗戦です。政府は勝手にプロイセンと屈辱的な講和条約と締結します。

マルクスの予言は的中して、不満を抱えたパリ市民は団結して、パリコミューンが起こります。パリコミューンはマルクスも評価する世界初のプロレタリアート独裁政権でした。

しかし、臨時政府とプロシア軍に直ちに制圧され、5月21日から28日の「血の1週間」の大虐殺が起こります。

この時の悲惨さを歌った歌が「さくらんぼの実る頃」です。(日本ではアニメ「紅の豚」の中でジーナがホテルアドリーノで歌っていますので、ご存知と思われます。)さくらんぼの実る頃は5月から6月ちょうど今の時期です。ジーナの吹き替えと歌は加藤登紀子が行いました。

渋沢栄一 ANDの美学

渋沢がパリに滞在していた時は、普仏戦争の前なのでパリはかなりバブル気味で好景気でした。しかし一方、ルイナポレオンの政策を避難への非難も多くありました。それらを描いたオノレドーミエの風刺画など掲載した「カリカチュール」「シャリヴァリ」などの新聞も出回っていました。好景気といっても、生活が楽になったものばかりでなく、倫理観の強い善良な資本家ばかりであるはずなどありません。

渋沢のことですから、このような批判の新聞なども目にしていて、疑問や課題も感じ取っているはずです。さらに帰国後のパリの動向(普仏戦争から血の1週間など)に関しても関心を持って情報収集していたに違いありません。
経済や国政には倫理観が必要であるというのが渋沢の考えです、欧州ではキリスト教がその役目を果たしていることもパリ滞在中にわかりました。しかし、渋沢はキリスト教や同じく仏教のこともどうも信じられませんでした。ですから深谷時代から親しんだ論語にその思想的倫理の元としたのは必然でした。

それが「論語と算盤」です。
「士魂商才」などの言葉が有名ですが、重要なのな公益と利潤など、相反するか関係なさそうな二つの概念の融合や両立を図ったことだと思います。要するに「AND」の美学です。それが証拠に、「論語と算盤」は10の章だてになっていますが、「常識と習慣」、「仁義と富貴」、「実業と四行」など全て間が「と」で結ばれた言葉に統一されています。

マルクスが、ブルジョア対プロレタリアートの対立や資本主義と社会主義共和主義の対比を鋭く指摘したのとは、対照的と言えるでしょう。

これら相反する二つの概念の両立や融合は、今の社会に完全にあてはまります。まさに感染拡大防止か経済維持か、経済発展か地球環境保護かなどです。

これらの2つの相反するようなことのバランスの問題は、ラグビー にも通ずることがあります。ラグビーはそもそも後ろにパスしながら前に進むという矛盾があります。キックが継続か、ユース世代の勝利主義か、普及育成か。アタックかディフェンスか、個人かチームか、閃きか決め事か、などです(これらもまた別の記事にまとめたいと思います。)

 

参考図書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です