ラグビーを哲学する スピノザ「エチカ」から その3
ラグビー を哲学する スピノザ「エチカ」から その2
名曲紹介 「Something In The Air 」 Thunderclap Newman
ラグビーを哲学する ソクラテス、プラトン、アリストテレス
ラグビーを哲学する スピノザ「エチカ」から その1
ラグビーを哲学する 大陸合理論の立場から
ラグビーを哲学する ツアラストゥラはRUG語りき
ラグビーを哲学する 英国経験論の立場から
日本代表36名 発表
23日 日欧でチャンピオン決定
安心安全な大会とは
「安全安心なオリンピックを行う」
これが現在の政府、東京都、組織委員会の公式見解である。この言葉は考えようによってはオリンピックを行わないと言うことに等しい。
なぜなら「安全安心」は絶対に実現できないからである。
「安全」は確率の問題である。
100%安全なんてことがあるのか、例えコロナがなくてもザマざまなリスクは存在する。世界中から選手が一つの街に移動してくることだけでもリスクはある。。しかも文化風土宗教、政治体制など全く違った国にいくとなれば尚更である。もちろん、スポーツ自体の競技中にも怪我や事故が起こる。過去の大会でも完全に安全だった大会なんて一つもない。実際テロが起こったこともある。選手を選手村に囲って少しでも安全を確保したり、危険な地帯をロックしたりと対策には苦慮されている。
次に「安心」。
これは感情の問題である。個人の安心感である。個人の感情の問題である。したがって人それぞれで、安心感の幅は広い。よりどころになるのは信頼の問題である。何に持って感情を持つかと言うとトップたる発言者である、発言者が信頼できない限り安心感は形成されない。現状の日本政府及び関係者が信頼できないものである限り、安心感を得ることは不可能である。
したがってこの理論では「安全安心な大会」ができるはずはない。
本当にオリンピックを実現したいのなら、冒頭の様な「安全安心」のようは発言はしないはずである。
ではどうすれば良いのか
この様にしてもらいたかった
オリンピックの本来の目的、理念を説明し、理解してもらった上で、「完全に安全で安心なオリンピックにはならないかもしれないが、開催に当たって少しでもそれに近づけられる様に是非とも協力願いたい。」
誤解を承知で言い切って仕舞えば、リスクを冒してでも行うのがそもそもオリンピックである。そもそもオリンピックは平和を願って行うのである。ということは世界は平和でないからオリンピックを行うのである。世界平和の実現のキーは政治やトップの会談や外交にだけあるのではない。草の根の活動による異文化、異なった考え方、風土などの相互理解にある。一般の市民同士が理解し分かり合えば、戦争なんて起こらなない。いや起こさせない。壁を壊すのは壁の向こうに友達ができることだ。
比較的平和である日本でさえ、日常生活に追われていれば、他国のことまで気を配ることは疎かになる。自国やその周辺に問題や火種を抱える国なら尚更である。そんなことから4年に1度くらいはスポーツを通じて、わかり合う機会にしてはどうか、これがオリンピックである。100%お互いを理解できないかもしれないか、対話をして少しでも理解しようとすることが大切なのだ。
選手同士はスポーツで競い合うことで、言葉の壁を超えてお互いを分かり合うことができる。それを観戦する者もそこに純粋さ気高さに感動し、同じ人間なんだと言う理解が深まる。
コロナ禍で世界の交流がなくなった今、世界の分断は広がっており、相互理解が取れにくい状況になっている。草の根で、世界がわかりあい、助け合ってこそ実現に近づく。そういう機会が必要なのではないか
相互理解ということは、相手のことを理解するだけでなく、自分のことも理解できる機会になるということでもある。日本という国の中にいると、日本人は日本の異常さも気づかないし、同様に日本の良ささえ気づかない。
今回のオリンピックをめぐるすったもんだで、私たち日本人は古い因習に囚われた時代遅れの国であるということをつくずく思い知らされた。「建前を通す」や、「嘘も方便」や、「空気を読む」や、「密室での決定」や、「ワキマエル」などである。さらに「老害」がはびこり、「マイノリティ差別の意識のひくさ」、「経済第一主義」、「IT技術の遅れの状況」なども白日の元にさらされた。スポーツ界においても根性論、精神論、パワハラまがいの体育会体質の各競技団体は、次々に根本から見直された。
この様な問題ことが次から次に明らかになったのは、オリンピックを東京でやることになったからである。オリンピックがなかったら、これらの諸問題が表に出ることもなかったかと思うと、それこそおぞましい限りである。
そして一方、日本良いところも、世界に知ってもらえる機会になって欲しいと思う。日本人にとってはその日本の良いところも見直す機会になって欲しいと思う。日本にいては当たり前のことでも、世界から見れば素晴らしいことはたくさんある。それを日本人自らも知って自信を持ってもらいたいと思う。
2019年のラグビーW杯では、参加者、国内外観客、メディアにより、日本の素晴らしいところが、世界中に発信された。例えば、感謝の気持ち(試合後のお辞儀は今や世界標準になった)、キャンプ各地での嗜好を凝らせた歓迎ぶり(国歌で迎えるなど)、安全な夜の街。ゴミもなく清潔な街。釜石の復興を思う気持ち、台風などの災害に対する対処の仕方。人種の壁が感じられない雰囲気。財布を電車に置き忘れて翌日に戻ってきて感動した人も多い。その電車は時刻通りにひっきりなしに走っている。もちろん、日本の食の素晴らしさは言うまでもない、美しい山川の自然もそうだ。オタク文化やアニメなども素晴らしい。
日本では、このコロナ禍においても、罰則がないのに道徳的に全員がマスクをして、外出も控えている。至る所に消毒液が置いてある。トイレや手洗い場所はどこも清潔である。道端にゴミなど落ちていない。スタジアムでも距離を置いて席に座っており、大声をあげるものもいない。誰もがスタジアム内のゴミを拾って帰る。世界中で、こんな道徳的な国はそうあるもんではない。
もちろん医療関係者は必死で戦っているし、ほとんどの飲食店も要請に応じている。エッセンシャルワーカーも低賃金で頑張り、オフィスや学校ではオンライン授業も進んだ。
オリンピックは、この様な素晴らしい日本を世界の人に知ってもらえる機会なのだ。それは私たち日本人にとっても、日本の素晴らしさを再確認する機会なのだ。
だから私はオリンピック賛成派である。ただし、金まみれで金儲け主義、政治の駆け引きの道具、売名人気取りの手段、馬鹿でかいだけのオリンピックは大反対である。小規模であっても、本当にオリンピックの理念を共有した者が、できる範囲で行うオリンピックであって欲しい。
オリンピックがその根本の理念もさえも完全に忘れられようとしている、それこそが「危機」である。そんな有象無象の魔の手におちてしまう「危機」からオリンピックを守るという意味での「安全安心な大会」であって欲しい