コロナは世界で未曾有の大惨事になってしまいました。
日本でも緊急事態宣言が発令されました。
現在のイタリア、フランス、スペイン、ニューヨークなどでの現状を見るにtけ、その悲惨さは察して余りあるものがあります。
特に欧州の歴史の中では、伝染病の蔓延は歴史の流れを変える影響力を持っていました。それらの恐怖は、欧州の人々の記憶とDNAの中に刷り込まれています。(日本人にはその感覚はつかめません)
欧州は古代から何度もペストの脅威にさらされました。古代と14世紀に欧州で猛威を振るった黒死病の状況を振り返り、当時の状況と、その後どうなったかもまとめてみたいと思います。
カミュの著作「ペスト」の中では、医師ペルウの「ペスト」歴史上の記憶として、こう記述されています。
ペストに荒らされ鳥一羽住まなくなったアテナイ。声もなく断末魔に喘いでいるシナの町々。汁のしたたる死体を穴の中に積み上げるマルセイユの徒刑衆達。(中略)コンスタンチノープルの病院の、土間に密着して湿気で腐りかけている寝床のむれ。覆面した医師たちのカーニバル。ミラノの墓場における、まだ生きているもの同士の交合。怯えきったロンドン市中における死体搬送車のむれ。
今のコロナとの戦いは、自宅待機という自粛の戦いです。この機会に「当時の欧州のペストことを知る」ということは、得に我々日本人にとっては必要なことと思います。これもコロナとの戦いの一つと考えます。
1、古代ユスティニアヌスのペスト
6世紀、東ローマ帝国で大帝と呼ばれたユウティニアヌスはでイタリア周辺まで失地回復を果した。しかし、その最盛期542年に、中心部ビザンチン(コンスタンティンノーブル)がペストに侵された。
この事実を当時の歴史家プロコピオスが「ペルシャ戦役史」の中に記述している。
「流行が始まり約半年間に、ビザンチン(コンスタンティノーブル)の人口の40%が死亡した。最もひどい時期には1日の死者が1万人を超えた。(ペルシャ戦役史)」
1万人といえば大映画館の監修の5倍に当たる(アルベールカミュの「ペスト」より)
墓地はすぐにいっぱいになり、城外の埋葬可能な場所に埋められた。それでも場所がなくなり、シケア城塞の塔の一つ一つに投げ入れられた。まず塔の屋根を外し、死体を上まで運んで投げ入れ、縁までいっぱいになったら木造の屋根で蓋をする、そして次の塔に死体を放り込む。
猛烈な死臭が漂い、その死臭は風向きによっては、ビザンチン市全体を覆うほどであったとされる。(村上陽一郎「ペスト大流行より)」
ユスティニアヌスは強力な軍事力で、イタリア方面までその領地を回復していたが、このペストのために、以降の拡大を断念せざるを得なかった。
その後この時のペストの流行は、「ユスティニアヌスのペスト」もしくは「ユスティニアヌスの斑点」と呼ばれるようになった。
この時のペストはアイルランドまで到達したとされる。
当時タラの丘にあったマッカーブハイル王家は、住民が全て死滅したために、この領地を捨てる事になる。
2、14世紀の黒死病の広がり
欧州最大の流行は1347年からである。
まず、1347年当初にはコンスタンティノーブルやベネチアで拡大した。
その年の11月にマルセイユに上陸する。
フランスでは、100年戦争の真っ只中、クレンシーの戦いで黒太子エドワードに負けたばかりで、9月に休戦協定が結ばれたと思った直後のダブルパンチとなった。
年が明けるとマルセイユから沿岸の町、アビニヨンに拡大する。
アビニオンは当時教皇庁が置かれていたが、教皇クレメンス1世は、1番に教皇庁を放棄して逃げることができ無事だった。
そしてペストは、ローヌ川を駆け上がりすぐにリヨンへ拡大。フランス全土を巻き込む。
さらに、8月にはイングランドに上陸。1349年にはイングランドを壊滅。少し間が空き1351年には、スコットランド、ウェールズからアイルランドへ広がる。(実はアイルランドはこの時は沿岸部だけだったが、のちの1365年にはアイルランド中を壊滅させてしまった。)
イタリアでも1948年にベネチアからフィレンツエに拡大する。
ボッカチオの「デカメロン」は、このペストの最中に娯楽がなくなったフィレンツエの中で書かれた「夜の話」ものであるが、そこの記載にはこうある
「概算して、3月からその年の7月までの間に10万の精霊がフィレンツエの城壁内で失われた、これだけ申せはもう付け足すことはありますまい(デカメロン)」
3、イングランドの状況
イングランドでは、まずは港町ドーセッドに上陸して街を壊滅させ、ロンドン、オックスホード、デボン、サマセット、ブリストルからグロスターまでを破壊した。
ロンドンでは1年半で4万人が死亡した。4万人は当時のロンドンの人口の半分に相当する。
ロンドンでは埋葬場所がなくなり、死体が「無人の野」という農場に放置された。
ロンドンはこの後1665年にもペストが大流行する。
この時は革命が終わった直後であり、当時6歳だったウイリアムデフォーが回想という形で『ロンドン・ペストの恐怖(栗本慎一郎訳/小学館)』に書いている。
この1665年のペストは、ニュートンの「創造的休暇」を産んだ(こちら参照)
4、当時の医療の状況
ペストの原因については全く解明されていなかった。まず今日のようにウィルスの存在は発見できていなかった。
教会や宗教学者は、天罰であると限定した。
占星学者は、獅子座の月食と木星と火星の合によってもたらされたと説明する。
一方で、腐った空気が原因ではないかという考えもおきた。地震によって、地球の地下にある腐ったガスが地表に出たためともされた。
人から人への感染ではないかと考えられ始めたが、それは患者と目が合ってしまうと、目から霊気のようなものが出て、その目を見ただけで即死するとされた。
当時は体内の腐った血を入れ替えるという治療法(セニエ法)くらいしか持っていなかったが、全くそれは効果を発揮しなかった。
ペストドクターという特別な医者が登場する。
下記のような異様な格好である
全身を厚手のコートで覆い隠し、鳥のようなマスクをしている。目の部分には色眼鏡になっていて直接患者の目を見ないようになっており、くちばしの部分には香料が詰められており、新鮮な空気(?)を吸えるような形である。
このペスト医師は欧州全体に広がった。治療法はほとんどが瀉血のみであった。全く医療効果はなかった。また悲しいことにペスト医師のほとんどはペストに感染しその命を落とした。
(ペストマスクは今やハロインの仮装の定番の一つでアマゾンでも売っています。)
大予言でしられるノストラダスムもペスト医師の一人だった。
5、ペストによって起こった現象
ペストの原因は、ユダヤ人が井戸に毒を撒いたのではという噂が広がり、欧州の各地でユダヤ人の迫害が起こった。エスケープゴードにされたユダヤ人は捉えたれ、無実の罪で処刑された。
神への信仰が深まった。普段教会に行かないような人も神の御慈悲にすがる為、その教会に押しかけた。キリスト教への改宗も進んだ。
贖罪行為が行われるようになった。自分を鞭で打つことで、罪滅ぼしをして天国へ行けるようにと行動した。これが組織的になり、大衆運動になった。街の中を数十名で行列を作って自ら鞭を打ちならが練り歩く「鞭打ち行進」が各地で行われた。「メア・クルパ、メア・クルパ、メア・マキシマ・クルパ(これ我が過ちなり、我がいと大いなる過ちなり)」と唱えながら行進した。
農村が変化した。農民の人口が減り、領主は賃金で農民を雇わねばならなくなった。中世の荘園制度が崩壊して行く。ワットタイラーの乱のような、農民の反乱も起こる。
鞭打ち行進は、民間信仰の色合いも強く、カソリックの権威が低下したものとも見える。ルターによる宗教改革の前段ではないかともされる
6、芸術や文化への影響
「メメントモリ(死を忘れるな)」が芸術の一つのモチーフになった。
「死の舞踏」は、民衆の中で寓話となり欧州中に広がり、それをモチーフにした絵画や壁画が描かれた。骸骨が死の象徴で、人を墓場に連れて行くという話である。
ハンスホルバインの木版画
オランダの画家ブリューゲルは、「死の勝利」を描いた
ペストの終焉によってもたらされた平和が、人間中心復権を呼び覚まし、ルネッサンスへとつながる要因になったという説がある。
この記事は村上陽一郎 「ペスト大流行」 岩波新書 を参考にさせていただきました。