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1987年 第一回W杯 「サモアのジャージを探せ」
1987年の第一回W杯は、日本のKDDIがスポンサーになって、予選無し、招待チーム16カ国で行われた。
同じアイランダーのフィジー、トンガ は招待されたが、サモア(当時は西サモア)はなぜか呼ばれなかった。ところが、フィジーに軍事クーデターが発生、フィジーの参加が難しくなる。主催者側は補欠としてサモアを指名する。しかし、開会直前にして、サモアの情報がない。慌てたのは主催者側、パンフレットを作るにもジャージやエンブレムがわからない。スタッフの一人がNZのラグビー専門誌にサモアのジャージを着た子供を発見、すぐに連絡をとってその子供にオールブラックスのジャージとサモアのジャージを交換してもらった。(インターネットの無い牧歌的時代でした。)
(このくだりは藤島大さんのコラムからの受け売りです。)
1991年 第二回W杯「カイロプラクティクとピアノ運び」
第二回W杯でサモア(西サモア)は大躍進した。特にアップセットとして歴史に刻まれるのは、ウェールズ戦。今では反則すれすれのラリアット気味のタックルがこれでもかと突き刺さる。このタックルは「カイロプラクティック」と呼ばれた。(激しい圧力で骨のズレや体の軋みが返って治ってしまうほどということ)サモアはノックアウトステージにも出場。チームを率いた主将のファティアアロアの職業はピアノ専門の運搬人。彼は1981年にポンソンビーのプロップとしてすでに来日済み。釜石で15000人を集めた伝説のゲームにも出場している。(これも半分は藤島大さんのコラムからの受け売りです)
追記
このファティアロアは、先日、ワールドラグビーの殿堂入りが決定、さらに、16日に川口で行われたNHKの釜石V7のイベントでゲストの伝説の右プロップ石山さんは、組んだ中で生涯一番強い相手として彼の名前を挙げました。
1999年 第4回W杯 「アップセット再現」
この大会でも再びサモアはウェールズを退ける。その前のジャパン戦、現ジャパンHCのジョセフをNo8に据えたジャパンはサモアに一掃される。ジョセフは何度も単独で突っ込むが、全てサモアの硬いディフェンスに阻まれてしまう。結果はサモアの快勝。
その勢いは続き、またしても地元のウェールズを撃破、ウェールズを破っても当然の結果であった。
2003年 第5回W杯 「開始からつなぎまくってトライ」
プールCイングランド戦、サモアは開始早々からパスをつなぎまくり9フェイズ28回のパスを繋いでこの大会優勝チームとなるイングランからトライを奪った。開始から5分。今では日本の高校生でも数十回のフェイズはよくあることだが、当時は誰もがびっくりした。ゲームには負けたがサモアが輝いた瞬間であった。
2011年 第7回W杯 「ウェールズの三度めの正直」
この大会でもサモアはウェールズと死闘を演じる。会場はオークランドから車で2時間弱ハミルトンはワイカトスタジアム。前々日にはジャパンがソニービルらのオフロードにコテンパンにされた会場は、この日も目の肥えた観客で満員。誰もが過去のW杯でのサモアとウェールズの激闘のことを知っている。サモアのディフェンスの圧力で、ウェールズはバックス陣が自由に動けない。一進一退のロースコアのゲームにとどめを刺したのは、ピッチの中での一番小さいウェールズのWTB、シェーンウイリアムス。左ラインぎわの微妙なハスの軌道は取り損ねたと思ったボールがワンバンドして彼の脇に入りそのままインゴールへ抑えトライ。サモアの野望は打ち砕かれた。(実は私は、ランドオブマイファーザーを歌うことで隣のウェールズ人と意気投合し、ウェールズを応援していました)
2015年 第8回大会 「スコットランド戦の激闘」
まだ記憶に新しいスコットランド戦の激闘。サモアはジャパンに敗れすでにノックアウトステージ進出は絶たれていたが、このゲームでは最後の最後まで気の抜けない激しい死闘であった。結果は33−36。トライ数で上回りながら、レイドローのPGにやられてしまう。この結果プール4位となり、次の日本大会には予選を勝ち抜かねばならなくなる。