ブルゴーニュといえば、言わずと知れたワインの銘醸地ですが、歴史も知っておく必要があります。
100年戦争終盤で王太子シャルルのオレルアン派に対抗して、イングランド側につき、ジャンヌダルクを捉えて、イングランドに引き渡したことは誰もが知っていると思います。そのイメージが強過ぎて、悪役に取られられがちですが、ブルゴーニュ側にも事情があります。ブルゴーニュ 大公国の最盛期を辿ってみたいと思います。
当時はフランスと言っても統一国家の形態は取っておらず、フランス国王もパリ周辺の直轄地しかありませんでした。封建時代ですから、ノルマンディー、フランドル、アキテーヌなど、全ては国として力を持って、フランス国王には臣下の礼をしているだけです。
ブルゴーニュは、古くはブルグンド王国でしたが、フランス王が併合して、フランス王の直轄地になりました。しかし、カペー朝の断絶からヴァロワ朝になると、完全に独立し公国となります。
フィリップ豪胆公
公国の歴史はヴァロワ朝の2代目ジャン2世の頃から始まります。ジャン2世は父フィリップからブルゴーニュ公国を譲り受けて、フランスの国王でかつブルゴーニュ公国の国王となります。ジャン2世という人はおおらかで昔ながら騎士道精神の持ち主で気前がよくさっぱりとしている性格で、(悪くいえば後先考えないノーテンキ)でした。時は100年戦争の最中です。クレンシーの対戦のフランスが大敗を期した後、今度はポアティエの戦いで、ジャン2世はイングランドに捕虜になってしまうのですが、この時最後までジャン2世を勇敢に助けたのが、末息子のフィリップでした。この実績が認められ、フィリップは豪胆公と称され、ブルゴーニュは気前よくフィリップに譲り渡されます。
さらに、父の不在時、フランスはフランドルやブルターニュなどでの様々な問題を抱え込みそれを的確に処理したのはフィリップの兄のシャルル(シャルル5世)、でした。ジャンの死後フランス王になると、ゲクランを総大将にして父が失った土地を着実に取り戻します。フランドル問題を解決するため、その兄の差し金で、フィリップはフランドルの一人娘マグリットと政略結婚を果たします。こうしてフィリップはアルプスの麓から大西洋までの広大な領地を獲得することになります。
フランドルはもともと羊毛でイングランドとの関わりが強く、経済的にも裕福です。ブルゴーニュ公国は栄華を極め始めます。
兄シャルルが亡くなると、フランス国王は、フィリップの甥のシャルルがシャルル6世として後を継ぎます。しかしシャルル6世はまだ若い。そのためフィリップも摂政として国政に参加します。シャルル6世とドイツのバイエルのイザボーを結婚させたのはフィリップでした。ところが、このイザボーは曲者でした。夫のシャルルにを尻目にオルレアン公ルイと懇ろになり、形だけの親政という形でフィリップを遠駆けながら、国政の主導権はオルレアン派一色となります。さらに悪いことにシャルル6世の精神が破綻し始めてきます。
また、オルレアン派とブルゴーニュ派はシスマ問題(ブルゴーニュはローマ支持、オルレアン派はアヴィニョン支持)など、国政のあらゆるところで対立します。
パリ近郊で両者が激突寸前まで来ました。この時は、なんとか激突は回避できました。
しかし、フィリップが病死してしまいます。
ジャン無畏公
フィリップの後を継ぎ、ブルゴーニュ公となったのがフィリプの長男ジャンでした。ジャンは好戦的で短気なところもある性格です。後に無畏公と呼ばれます。
ジャンはイザボーとねんごろになって国政を牛耳っているオルレアン公を暗殺しフランドルへ逃亡という強硬手段に出ます。
そして一旦は政界から退きます。イングランドが攻めてきた時も高見の見物と洒落込んで、参戦しませんでした。結果アジャンクールの戦いでは、オルレアン公率いるフランスはイングランドに大敗してしまいます。その後口巧みにパリ市民を見方につけて、政界に復帰します。しかし、今度はジャン自身がパリの郊外で王党派に暗殺されてしまいます(モントロー事件)。オルレアン公暗殺から10年ちょっとのことです。
フィリップ豪胆公とジャン無頼公の遺体は、ディジョン市内、公宮殿の閲兵の間の贅を尽くした棺の中に納めれています。
フィリップ善良公
ジャンの死後ブルゴーニュは、ジャンの息子フィリップがフィリップ3世として即位します。フィリップはやり手です。フィリップは父を暗殺したアルマニャック派と対立して、イングランドと同盟を結びます(=アングロ・ブルギニョン同盟)。敵の敵は味方です。こうしてフィリップ自身の関心事はフランスではなく、フランスの周辺、ホランド(オランダ)やナンシーに向かいます。
1420年には「トロア条約」でイングランドのヘンリーはフランス王になることが決定されます。しかし、なんということか、当人のイングランドのヘンリー5世とシャルル6世はその後あいついで死亡。トロア条約は中に浮いたままになります。
さらにシャルル6世の息子、王太子シャルルは自分の出生の疑問もあり、自信がなく即位をためらいます。オルレアンの攻防戦があり、ジャンヌダルクが活躍、フランスは起死回生を遂げます。ジャンヌダルクはパリへ単独で乗り込みますが、ここでパリを管轄していたブルゴーニュのリニー公に捕らえられます。リビー公とフィリップはジャンヌをどうしようかと考え、セリにかけてフランスとイングランド共に保釈金を要求します。しかし、シャルル6世はこの誘いに乗ってきませんでした。イングランドに引き渡されてたジャンヌは魔女裁判にかけらてて、火炙りで処刑されます。
カレーのアラスで和議の会議が開かれます。出席したのはイングランドヘンリー、フランス(アルマニャック)シャルル、とフィリップ善良公です。
最初フランンスとイングランドの協議がなされますが、これが完全な物別れになります。怒ったイングランドの代表は退席してイングランドに帰ってしまします。その後にブルゴーニュとフランス(アルマニャック)は和解します。結果イングランドの危機から当ざけます。(=アラスの和議)これでフランスではイングランドの驚異から逃れ一旦平和になります。
フィリップは、このように外交的に策略家であると同時に、領内の文化、芸術、産業にも力を入れます。
ワインも一流を望みました。(すでにガメイ禁止令を発令は発令されていました。現在はガメイは南のボージョレーで栽培されています。日本で大人気のボージョレーヌーボーのワインはガメイです。)フィリップは、ディジョン周囲のブドウ栽培に向かない低地での栽培を禁止しして、木を全て引き抜いてしまいます。そうして現在のコートドニュイやコートボームなどブルゴーニュの中心地で、高品質のワインが作られ、領地であるフランドルから輸出され、大繁盛することになります。
さらに、フィリップの官房長官だったニコラメイはボーヌに「オテルデュー(=オスピスドボーヌ)」を建設、ぶどう畑もこの病院に寄付されます。ぶどう畑の収益で経営は順調で、弱者のための病院として当時は最先端の医療が無料でなされるほどでした。病院のこの建物は現在でもあり、11月には「栄光の三日間」というワインのチャリティーオークションが開かれ、町中が世界各国からのワイン愛好者で埋め尽くされます。このオークションはワインを樽単位でセリに出されます。もちろん売上金は寄付されます。
金羊毛騎士団を結成し騎士文化が花開きます。(金羊毛騎士団はハプスブルグ家の最高の栄誉とされ現在も続いています。明仁上皇やイングランドエリザベス2世も団員です。)
絵画や芸術も力を入れます。フランドル絵画としてヤンファンエイクの名を上げなければなりません。彼は油絵具の発明者とされています。後の絵画芸術への影響は計り知れません。
しかしその栄華も終焉の時が近づきます。高齢となったフィリップは十字軍の提唱に失敗し、息子のシャルルも内紛を起こしたりします。そのすきに新たにフランス国王となったルイ11世もやり手で、冷淡に着実にブルゴーニュへの網を手繰り寄せ、圧力をかけづつけてます。(ルイ11世のあだ名は「偏在する蜘蛛」です)
シャルル突進公
フィリップ善良公の後を継いだのが息子のシャルルでした。このシャルルは猪突猛進型でついたあだ名が突進公でした。
一方のルイ11世は「偏在する蜘蛛」のように、冷静沈着でなかなか動きません。(ちなみにルイ11世統治下のパリを描いたのがユーゴーのノートルダムの鐘です。最近はディズニーアニメから劇団四季のニュージカルで有名。)シャルルは動かないルイ11世を見て、フランドルとブルゴーニュの間を埋めようと領土拡大に突き進みます。シャルルは軍隊を増強します。世界で初めて大砲を戦争に導入しました。ファルコン砲です。LEGOで再現してみました。こんなやつです
シャルル突進公は調子に乗りすぎたのでしょうか、スイス方面に兵を向けます。ところが、フランススイス連合軍との戦線でシャルルは戦死、狼に下半身を食いちぎられるという無残な姿で発見されます。
残されたのは一人娘のうら若きマリーだけです。
偏在する蜘蛛ルイ11世はここぞとばかりにブルゴーニュ周辺に貼りめぐらしていた兵を動かし、あっという間にブルゴーニュ領地を制圧してしまします。
ブルゴーニュの女伯爵 マリー
一人娘のマリーは命からがらフランドルへの脱出に成功します。不遇のマリーですが彼女も血筋なのかやり手です。すぐにハプスブルグ家のマクシミリアンと婚約を結び、半年もしないうちに結婚してさらに跡継ぎも作るという離れ技をやってのけます。
ハプスブルグ家が後についているとなるとルイ11世も容易に手出しできません。
ところが不運はつきません。まだ18歳だというのに、落馬事故で第4子のお腹の子供と共に亡くなってしまいます。
地元のフランドルでは「私のお姫様」と慕われているといいます。
彼女は私の大好きなベルギービールに名を残します。「ドゥシャスデブルゴーニュ」
レッドエールで酸味があってフルーティーで気品のあるビールです。
ブルゴーニュはどうなったかというと、その後内乱などもあり、フランスの統治下に置かれてることになります。
その後ユグノー戦争やフランス革命など、フランスでは大きな騒乱も相継ぎますが、ワインの畑だけは大切に守られ続けました。おかげで、私たちは今でもおいいいワインを飲めるわけです。