ラグビーの世界史を読む 第五回 第4部 (その2)ラグビーと第一次世界大戦

ラグビーの世界史 楕円球をめぐる200年 トニーコリンズ著 北代美和子訳 白水社

第四部嵐迫り来るなかの黄金時代

第13章 ハロルドワックスタッフとバスカヴィルの幽霊(前回)

第14章 第一次世界大戦以前の英国ラグビー(前回)
(屈辱を忍んで目的を達成する)

 

第15章 さらに偉大なゲーム?ラグビーと第一次世界大戦

今年はもうすでにすぎてしまいましたが、4月25日はアンザックデイでした第一次大戦「ガリポリの戦い」で多くの命を落とした南半球の兵士達を偲んでポピーを着けて哀悼を捧げます。


(ガリポリの戦い、上陸作戦)

MemoryCatcher / Pixabay

第一次世界大戦は欧州に多くの戦死者を出しました。
ラグビーや他のスポーツもそうですが、当時特にラグビーは軍事教練の使命も兼ねているという考えがあり、「有事には女王陛下のために馳せ参じる」という暗黙の了解もあったと言います。戦意高揚の目的でラグビーも使われました。

その考えがラグビー選手に多数の悲劇をもたらしたことも事実です。この章では、第一次大戦の前後の悲劇が語られます。

 

ダーブ(偉大な)ヒッキーの話

この章はオーストラリア代表で激戦のソンム川の戦いに参加して、奇跡的に戦死を免れたダーブヒッキーの話から始まります。

ヒッキーはワラビーズの大柄なセンタープレーヤーで、1908年の遠征後、プロのリーグへの転向も考えてはいた。1910年に遠征してきたブリティッシュライオンズとユニオンの選手として対戦した。ところが、リーグへの転向の前に戦争が勃発する。1916年には義勇兵に登録する。

1916年シドニーの実家を離れて5ヶ月、オーストラリア帝国軍56歩兵大隊の仲間の新兵に合流するために軍隊輸送船セラミック号に乗船。1916年10月7日イングランドに出航。

1917年2月17日激戦地ソンムに到着した。4週間もしないいちに深刻な凍傷になり、傷病兵としてイングランドに送還。フランスで運転手として軍務に復帰、終戦を迎えた時にはベルギーにいた。参戦したオーストラリア人33万1814名のうちに6万人が死亡した。ヒッキーは幸運にも生き残った一人となった。


(多くの犠牲者を出したソンム川の英国軍塹壕)

ヒッキーは1919年7月20日に故郷に帰国。一介の労働者として働き、自分の力で精肉店を営むことになる。

店内には輝かしいラグビーで得たキャップ等を飾った。しかし、店に訪れる訪問者は決して従軍記章など兵役の記念品を目にすることはなかった。ヒッキーは戦争の全てを忘れることとし、それらの全てを自らシドニー湾に投げ捨てていた。

 

戦争に備える

ラグビーはただのスポーツ以上のものであることを常に誇りにしてきた。自らの役割は青少年を本国でも海外でも、平時でも、戦時でも、大英帝国の指導者として振る舞えるように育成することだと信じていた。
確かに、ラグビーと軍務は「トムブラウンの学校生活」の底流にある考え方の一つである。

ハーレクインズ、ブラックヒース、ロンドンスコティッシュなどの多くのチームからは多くの国防義勇軍と関わりがあり、将校の多くはラグビー経験者で占められていました。

1914年夏、ついに宣戦が布告された時に、熱心なラグビーファンの言葉を借りれば「これほど長いあいだ準備してきた試合」が始まったようなもだった。
そしてラグビーユニオンのゲームは戦時中は中止になるどころか、軍隊と市民生活の重要な呼び物の一つとなった。

 

より偉大なゲーム

ロンドンだけでなく、フランスでも軍のチームとクラブチームのゲームなどが参観に行われ、戦意の高揚に使われます。それに市民は熱狂します。クラブチームからはこぞって軍隊に志願兵が送られることになります。

軍隊の中でも盛んにラグビーのゲームが行われました。多くの戦死者を出したソンム川の戦いの前日にも前線のキャンプでラグビーが行われたということです。

 

もはやゲームではない

それが多くの悲劇を生んでしまう。

多くのチームが戦争でクラブの人間を戦死させてしまいます。
以下各クラブの戦死者数箇条書きにします。
ロンドンスコティッシュ 45名
ブルストル 300名
リッチモンド 73名
ロスリンパーク 72名
リバプール 57名
ハートリプール 33名
オールマーチャントテイラーズ 13名戦死2名再起不能

NU
リーズ 15名
ウィドネス 13名
ハル12名
スウィントン9名
NUその後の調べで103名

また各国の代表クラスの優秀な選手も多く命を落としました。

オーストラリア:ユニオン代表9名、リーグ代表2名
ニュージーランド:13名
その中の一人オールブラックスの偉大なキャプテン、デイブギャラハーが含まれます。

 

さらに下記に本誌の中に名前の出てくる代表クラスの戦死者を列挙します。


アルフレッドメソニエ:スタッドトゥルーザン、ハーフバック。マルヌの戦いで行方不明、のちに戦死が伝えられる。

スコットランド代表ロニーシンプソン:エーヌの第一回開戦で敵の放火を浴び死亡24歳。

スコットランド代表 ジェームスヒューガン医師:戦前最後のカルカッタカップでトライを記録。エーヌ開戦でドイツ人の負傷兵を治療中に砲弾で吹き飛ばされる。


イングランド代表FWキャプテンチャールズウイルソン、ヒューガン医師と同様に最後のカルカッタカップ出場、エーヌ開戦で死亡。ヒューガン医師の死亡の翌日であった。

テッドラーキン:オーストラリア代表 NSW連盟の書記も務める。ガリポリの戦いで死亡。オーストラリア代表での最初の犠牲者。

アルバートダウリング:ニュージーランド代表FW ラーキンの4ヶ月後にガリポリの戦い戦死。オールブラックスで最初の戦死者。

デビッドベテルシブライト:英国代表キャプテン、1904年オーストラリアニュージーランド遠征に参加。ガリポリの戦いで死亡。

ウィリアムチャーチ:スコットランド代表ウィング。ガリポリの戦いで死亡。

ハリーベリー:イングランドおよびグロスター代表。グロスター連隊第一旅団がオーベル山稜の戦いで、塹壕線から攻撃に移った時にわずか1日で262名が死亡した中の1名。

 

ベージルマクリヤー:アイルランド代表。ドイツ軍による塹壕攻撃でイープル近くで戦死。最初に命を落としたアイルランド代表。

ロナルドボールトンパーマー:最初の戦線勤務に出てわずか5週間後にドイツ軍の射撃種の銃弾に倒れる。

ノエルストック:イングランド代表。ソンム川の戦いで死亡

 

合計で130名のラグビーユニオンの代表選手が戦死。数千人の一般プレーヤーが戦死した。

それでも、戦争終結直後からラグビーユニオンの多くが、ラグビーの持つ道徳的目的の証拠として戦争における犠牲を持ち出すようになる。

当時のラグビーユニオン会長ボブオースクも、このようなラグビーの選手戦死者がいかに勇敢であったかを主張する発言をしている。今から思うと全く愚かな行為であると言わざるを得ない。

スポーツは戦争でないし、戦争はスポーツではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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