フランス史上恐るべき女子達 第五回 テロワーニュ・ド・メリクール 作られた偶像

2023年W杯でフランス各地を訪れる際に、歴史を知っていればさらに訪問の価値も意義も深まると思います。

フランスの歴史の中には、時代を左右させた様々な女性の姿があります。もちろん誰も知っていて有名なのはマリーアントワンネットやジャンヌダルクなのでしょう。しかしそれ以外にも、数奇な運命の元、私欲と陰謀が交錯し、裏切りと背徳に染まった女性がたくさんいます。そして彼女たちが結果的に歴史を動かしています。それが大抵はおぞましいいほどの血の匂いがして生臭いものなのです。その中には、単なる噂に過ぎないものや、いつの間にか闇に葬られて史実としては認められていないこともたくさんあります。このシリーズではそんな話を掘り起こしてみたいと思います。

前回はシャルロットに焦点を当てましたが、今回からはフランス革命に登場する他の女子を紹介したいと思います。シャルロットもそうでしたが、全員がどこかに「ぬけている」ところがあって、そこが個性というか魅力になっています。そんなことで周りの男子は非常に心を動かされてしまうのです。恐るべき女史たちです。

テロワーニュ・ド・メディクールは、男装の乗馬姿で、8月10日事件を先導した女性として有名です。ジャンヌダルクをはじめとしてフランスでは女性を自由の象徴としてまつりあげる風潮があるらしいです。

彼女は目立つ存在だったために、革命の中で周りから担ぎ上げられ、うまく利用されます。本人もそれがまんざらでなく、その役目を演じようとし、期待通りに活躍するようになります。しかし彼女は不幸な出来事から、最終的に精神的に異常を来たし、晩年はずっと施設の中で狂乱の中で死んでいいく運命になります。

革命初期 単なる革命ミーハー

元々は歌手として身を立てるつもりでした。しかし、流行に敏感で、時代が変わりつつあると感じ取った彼女は、居ても立ってもいられなくなり、公演先のイタリアからパリに行きます。

バスティーユの際には、パレロイヤルにいました。もちろん派手な乗馬服。そこでバスティーユ陥落の知らせを受け、歓喜の時を共有します。

「わ、なんて素敵!!革命だわ!」

次は、国民議会の傍聴席に行ってみます。もちろん乗馬服。そこで「人権宣言」が高らかに宣言されます。

「わ、なんて素敵!!自由ってすばらいい」

今度はベルサイユ行進です。実は彼女は行進に遅刻し、終わった頃にやっとベルサイユにつきます。もちろん乗馬服。

「わ、なんて素敵!!でも遅刻してちょっと残念」

しかしここで、いつでも現場にいる彼女に革命家、パリ市民の中に伝説が生まれます。

「バスティーユ襲撃、ベルサイユ行進を主導した女性革命家」

こう言われては、もともと革命に恋い焦がれている彼女に取ってはまんざらでもなかったはずです。本人も否定はしなかったと思います。またまたその気になってしまいます。

恐る恐る初めてコルドリエクラブで発言してみると、やんやの大喝采です。

革命中期 女性戦士としての偶像と誘拐事件

さらに、その時は流行の政治クラブを作ろうと持ちかけられ、2つもの政治クラブを作ります。ハクをつけるために革命の大スター、ダントンなどもメンバーに入れます。

ほおっておかないのが、政治ジャーナリズム。彼女の手記と称して特集記事が組まれ、彼女の著作とされる小冊子が発行され、ベストセラーになります。

彼女の周りには革命の志士が集まり始めます。

噂は噂を呼び、敵国の諜報部員の目に止まります。そしてなんと敵国オーストラリアによって彼女は誘拐されてしまいます。そして、オーストラリアに6ヶ月も監禁されます。入念な取り調べの結果、無罪となり釈放されます。(当然です。何もやっていないのですから。)

帰ってきたテロワーニュを、パリは歓喜で出迎えます。誘拐されたことでまた一つテロワーニュに箔がきました。

よく年正月早々、テロワーニュはいつものように国民議会の傍聴席にいました。これをジャコバンの議長のディフルニが見つけて議会で発言します。

「諸君、ここに革命の愛国心の精神の勝利者、有名なテロワーニュ嬢がおられます。ご紹介します。ご注目を」

すると国民議会は、全員スタンディングオベーションで迎え、テロワーニュの議会での発言を促します。

演壇に立ったテロワーニュからは、期待された政治的発言は無しで、誘拐の経緯を単に述べただけでした。(当然です政治的なことはからきしわからないのですから)

しかし、その後に議長の発言やマニュアルの発言は熱狂的でした。
「自由のアマゾンヌ、彼女こそ議長席に座るべき人物であるぞ」
そして議員全員が満場一致。大喝采の中、議場の隣の席にテロワーニュの席ができました。

しかし、時は既に共和制を目指す急進派のジャコバンと、立憲君主制を目指すジロンド派に分かれていきます。この時彼女の周りにジロンド派が多いのが運命の分かれ道でした。

革命絶頂期 8月10日事件の真相

8月10日事件の朝、今度ばかりは遅刻するわけにはいかないので、朝早くに起き、乗馬服にサーベルという完璧なファッションに身をつつみます。そして急いで、集合場所のフイヤン高台に行きました。既にそこには武装した市民が集まっています。そこに国民軍の軍服を着てまぎれ込んだ王党派のシュローが連行されてきました。シュローは王党派のジャナーナリストです。過去には彼女のことを散々にこけおろした記事も書いていました。彼女は彼を確かに恨んでおりました。彼女が周りから促されて腰のサーベルを抜くと、彼女が何もしないうちに、周りの男たちが一斉にめっだざしにして、首を跳ねてしまいました。このシュローの首が旗印となり、宮殿への武力攻撃が始まったのでした。

後からの革命の有名人たちの備忘録からは、「剣を抜いて先頭を切る女性戦士」、「軍勢を鼓舞する女性戦士」という記述がたくさんあります。確かに、この時にテロワーニュは見かけはそのような行動をとったと思われますが、だいぶ誇張されていると思われます。

 

分裂期 誤解から受けた暴行事件

そしてよく年ルイ16世は処刑されます。ジロンド派とジャコバン派の対立はいよいよ激しくなります

テロワーニュには主義主張の違いや目指す政治体制はわかりません。なんでみんなが仲が悪いのかわかりませんでした。敵国を前にして仲間割れしている場合ではないと見えました。

そこで彼女は「仲直りしましょう」というビラを作って市内にばら撒きました。

これは急進派のジャコバンからは、穏健主義者、保守主義者と取られられてしまします。彼女は今度はジロンド派=反革命となってしまいます。

5月15日に事件が起きます。テロワーニュはいつもように議会の傍聴に行くこうとすると、国民会議の門の前で、ジャコバン支持の下層市民の婦人たちに囲い込まれます。

「この金持ちの豚め」「腐った金持ちめ」「反革命の手先め」最初は罵倒されただけでしたがエスカレートします。

服をちぎられ、丸裸にされ、お尻をはたかれ、寄ってたたかって、殴られ、蹴られの暴行を受けます。
パリのど真ん中公共の真ん中でこんな辱めを受けるなんで、彼女には精神的に耐えらるものではありませんでした。

(この時、彼女を民衆から助けたのは「人民の友」、「ジャコバンの首脳」、のちにシャルロットに殺害されるマラーだったということです)

その後、彼女は忽然と姿を消し、革命の最前線に出ることは一切でありませんでした。33歳の時です。

こうして公の場から忽然と姿を消してしまうと、さらに伝説は伝説を読んでどんどん神格化されます。

「バスティーユ襲撃、ベルサイユ行進、6月事件、8月10日、9月暴動を主導した女性革命家、自由のアマゾーヌ」

その後 壮絶な精神病棟で続く戦い

実は彼女は世間でそんな風に言われていることはわかっていませんでした。既に、暴行事件のショックが引き金になり、激しい精神障害をきたしてしまっていたのです。

周りには何も知れず、ひっそり精神病院に送り込まれます。

時おり精神錯乱の発作が出ると、「委員会」「自由」など革命の激しい言葉を口走り、汚物の中で暴れまわるなど。手のつけられない病状で、全く回復の気配はしません。

54歳で精神病棟で亡くなるまで、21年間彼女の頭の中は革命の時でストップしたままでした。彼女の頭の中では21年感革命の戦いを続けていたのです。亡くなったのは1814年。よく年にはエルバ島からナポレオンが戻ってくる年です。

下記の横顔の絵を見比べると、恐ろしさがわかります


歌手時代、革命時代、病院時代の横顔

革命がなかったら歌手として普通の人生だったと思うと、さらに恐ろしくなります。

 

安藤正勝氏の「フランス革命と四人の女」を参考にさせていただきました。

 

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