よく、ある店先の言葉でよく耳にするが
「もっと安くならないの」
「勉強させてもらいまっせ、こんなんでどうでっしゃろ」
このときの勉強という言葉も同じである。おそらくそこでは何も学んでなんかいない。
勉強は無理を強いて、一つの答えを覚えることで、学習は自ら多くの答えを探しだそうとし続けることだ。
勉強して一つの答えが頭で分かったつもりでも、それがすべて身につくとは限らない。自ら学ぶことができないと深くなならない。なにかの課題に直面した時など一つの答えしか無いことなどない。
難しい本を読んで一字一句丸暗記する勉強をしたとしても、一つの言葉について5分間だけもよいので何度も自分で考えてみることには全くかなわないのだ。
ラグビーでもそうだ。
相手に負けて(負けそうになって)、よく出る言葉「いい勉強をさせてもらえました」とは、一つの答えを提示してもらったことである。自分たちの足りない点(特に過信など)に気付かされ、それを白日の元にされてしまったという事実がそこにある。その言葉からは本当に学びがあったのか、それが口先だけの言葉なのかわからない。単にヒヤヒヤしただけかもしれない。(それでも勉強しないよりはましではあるが)。
仮に反省をしたとして、そのことが身につくかどうかは学習するかによる。学習の学はみずから考えて学ぶことだが、習は習慣づけの習である。最新の脳科学でも実証されているが、シナプスの接続は繰り返すほど強くなる。無意識のレベルにまでにしなければならない。ただしそのため習慣づけには時間がかかる。それは朝起きてから寝るまでの普段の生活レベルで実践できてないと身につかない。
習慣づけをおこたってしまい、傷口に絆創膏をはってしまってはいけない。「お灸をを据えられた」も一緒である。その場しのぎの対処ではまた失敗が繰り返される。
12月4日の早明戦から、早稲田は何を勉強し、何を学習したのか。12月4日の早明戦がガチの戦いであったなら、勉強もするし、学習もできただろう。はたしてほんとうに勉強し、学習できたのであろうか。
「次がある」という思いが気のゆるみにつながっていたのでは無いことを願いたい。
(一方、東洋大の今季の戦いぶりは見事であった。1部昇格でき最初の東海大戦をものにすると、その後も僅差の戦いがつづく、僅差の戦いは必ず学習する絶好の機会である。そして初となる大学選手権出場とである。チームとして学習し、学んだところがチームの成長につながっている。)
東洋大戦での伊藤大祐の復帰は大きいが、それが絆創膏にならないように思いたい。
しかし、しかしだ。習慣づけには2週間という時間は短すぎる。
これらは、明治にも同じように言える。12月4日の対戦で学ぶべき点はあったのか?学習はできたのか?2度同じ相手に勝つという重みを受け止めてほしいと思う次第だ。
同じくこの秋のイングランド代表にも言える。
冷静にエディさんの解任劇を考えると、イングランドは19年の準優勝からすこしも成長していないように思える。いや勉強すらしていないように思える。この秋の戦いぶりもそうだ。アルゼンチン戦の敗戦もジャパン戦の大勝が絆創膏になってしまった。そして全く成長していないので最終戦の南アフリカ戦のみじめな敗戦につながったと見える。19年からのイングランドに足りないのはチャレンジャー精神や謙虚さではないか。エディさんは過去の偉大な革命家と同様に、強烈な個性とバイタリティーで周りを混乱させチームを全くあたらしく作り変えるのには長けているが、チームを安定させ定着させるのは不得手なのだ。15年の後もチーム内のコーチ陣との関係はよくなく多くのコーチ陣がチームから去っていったという事実がある。また、エディさんのふてぶてしさがチームのふてぶてしさにつながり、それが過信につながってしまっているのかもしれない。
話はそれたが、25日の早明戦の再戦はどちらが勝つにせよ、お互いに成長な糧になるような中身の濃いラグビーを期待したい。