ラグビーファンにはボルドーというと、2007年W杯大会のカナダ戦の終了直前の大西将太郎の同点ゴールを思い出します。(2015年のブライトンまではこれが日本のW杯のハイライトでした)もちろん2023年もこの地でW杯が開催されます。
ボルドーの概要
ボルドーはワインの代名詞。フランスワインの最大の生産地域がボルドーです。なんせワイン用のぶどう畑だけで12万ヘクタール(簡単にいうと30Km✖️40Km相当)。フランスのワイン生産の15%以上がこの地で行われています。ワイナリー(ボルドーではシャトーと言います)の数はなんと7500もあります。
ボルドーには、3つの川(ドルトーニュ川、ガロンヌ川、ジロンド川)が流れていてこの川がもたらす土壌や地形が、温暖な海洋性気候と相まってワインに適したテノワールを作ります。ボルドーは「月の港」と言われますが、ガロンヌ川が蛇行しちょうど三日月の形をしているところに街があります。そしてそのガロンヌ川は、ボルドーの街の先でドルトーニュ川と合流し、巨大な川幅を持つジロンド川となって大西洋に注ぎます。
ボルドーの街はこの川とワインとともに発展してきました。そもそもボルドーという名前は川のほとりという言葉が語源です。
ガロンヌ川を遡るとこれまたラグビーマッド地帯トゥールーズへ繋がります。トゥールーズから地中海までは、世界遺産のミディ運河で結ばれて、ボルドーのワインはプロバンスまで出荷されました。
ボルドーの歴史
プランタジネット朝創始者ヘンリー2世の王妃となったアキテーヌ公、エレアノールによって、ワインはボルドーという自然の良港からイングランドに多量に船便で送られました。その頃はここはイングランドの一部でした。
ルイ15世の時代には、ベルサイユ宮殿で、ポンパドール夫人のラトゥーユ派とデュバリー夫人のマルゴー派がいつも競い合っていたということです。
ボルドーの港は新大陸との植民地貿易、奴隷売買の中心でもありました。
18世紀にはボルドーの街は大規模な都市計画により作り変えられ、機能的で非常に美しい街となります。
ワインで財を成した貴族や豪商が多く、フランス革命の時にはブルジョア市民のジロンド派の中心の地でもありました。それも、ジャコバン独裁、恐怖政治によって、多くのシャトーは国庫に没収、シャトーのオーナーはギロチンに処せれることになります。しかし、帝政が始まると、すぐにまた大豪商が買い戻し復活しました。
1855年パリ万博の際にボルドーのワインが出展され、ナポレオン3世によってメドックのワインに高級の格付けがつけらてその地位を不動のものにしました。
ボルドーは大都市なので普仏戦争のときと、第二次大戦のビジー政権の際にパリから首都をが移ったこともあります。
ボルドーワイン産業の仕組み
ボルドーといえば、高級で濃厚なボディの効いた赤ワインを思い浮かべます。そのほとんどがカベルネソーベニオンとメルローのブレンドです。巨大なワイナリーで独自のブレンドでワインを作ります。この巨大なワイナリーをシャトーと言いますが、ワイナリーは全てお城のような豪邸です。このへんがライバルのブルゴーニュと対極をなすところと言えます。数種の違った特徴を持つ優れたぶどうの育成と、ブレンドの技術、これらが、複雑で奥の深い高級なワインの品質を守ってきました。もしも天候に恵まれなけれは、その年はブレンドの配合比率を変えれば良いだけです。ぶどうの出来栄えに左右されずに、大量に安定して製造するシステムを作り上げたのがボルドーといえます。
流通部門の分業化、販売のアウトソーシングも始まります。多くのシャトーから独占販売権をもらって、ブレンド、ネーミング、瓶づめ、ラベルはりから、在庫管理、世界中へのシッピング、広告宣伝などを全て行います。この流通会社を「ネゴシアン」と言いますが、この業態も非常に潤います。さらには、シャトーとネゴシアンを結ぶ仲介者のような仕事の業態「=クルティエ」も出現します。
さらには1855年パリ万博の際のナポレオン3世による格付けによって、高級ブランド化を成功させ、その品質とイメージ崩すことなく継承してき、高級路線ボルドーの全体の地位を守ってきました。ナポレオン3世の格付けは160年間後の今でもほとんど変わっていません。
もう一つワイン産業を支える需要な仕組みがあります。ワイン産業とくに長年の熟成を必要とするボルドーワインは、現金が戻ってきて、投資回収に時間がかかります。ですからビジネスとしてのリスクがどうしても高くなります。そこで、「プリムール制度」といって瓶詰め前のワインの先物取引の市場があります。最初にワインができた段階で試飲会があって、そこで比較的安価に買い取ってしまいます。プリムールは畑にぶどうが実った段階でも行われることがあります。