ワトソンは 現イングランド代表のWTBアンソニー・ワトソンのことではありません。一般のみなさんご存知の、コナンドイル原作のシャーロックホームズの相棒のワトソンくんです。
シャーロックホームズシリーズは56の短編と4つの長編があります。
そんな中ラグビーに関係するものが2つもあります。
一つ目は「スリークオーターの失踪」(1904年発表 シャーロックホームズの復活収録)
もう一つは「サセックスの吸血鬼」(1924年発表 シャーロックホームズの事件簿収録)
シャーロックホームズは、19世紀のビクトリア時代を背景にした話として、発表されましたので、ラグビーが始まった頃(エリス少年の伝説は1823年)の状況を知る上でも貴重なものです。
サセックスの吸血鬼
「サセックスの吸血鬼」では、依頼人のロバートファーガソンが、クラブチーム「リッチモンド」の元スリークオーターだったという設定です。そして、ワトソンはライバルチーム「ブラックヒース」の元メンバーでゲームをしたことがあるという話が出てきます。
下記 創元推理文庫「シャーロックホームズの事件簿(深町眞理子訳)」より引用させてもらいます。
ファーガソンからの依頼文の最後に追伸でこうあります。
追伸 確かご友人のワトソン氏は、かつてブラックヒースクラブでラグビーをやっておられたはずですが、小生もまたリッチモンドクラブでスリークウォーターをやっていました。
「この男のことはもちろん良く覚えているよ」そう言いながら私は手紙を置いた。「ビッグ・ボブ・ファーガソン ー かつてリッチモンドに所属したうちでも、最高のスリークオーターだろうね。気のいいやつだが、友人のことでこんなに心配するなんて、いかにもあの男らしい。」
翌朝10時にファーガソンが大股に入ってきた。私の覚えている彼は長身の岩を切り取ったかのように頑丈な体格、それでいて柔軟な手足と、素晴らしい敏捷さとに恵まれ、その力で対戦相手のバックスを散々に翻弄し尽くしたものだった。(中略) かの立派な体格は今や見る影もなく、光り輝いた金髪は薄くなり、肩は前かがみになっている。
「いよう、ワトスン」いつだったか、オールドディアパークで君をロープ越しに観客席に放り込んだことがあったが、あの頃の面影は全くないね。僕も同様だいぶ変わっているが (後略)
リッチモンドクラブもブラックヒースも実在のクラブチームで、今でも存続している名門です。
リッチモンドのHPによりますと、クラブの結成は1861年、最初のゲームは1864年にブラックヒースと行ったとあります。
ブラックヒースクラブの結成はリッチモンドより早く1858年です。
ワトソン医師がゲームを行ったオールドディアパークは、トゥイッケナム近くの公園で、リッチモンドクラブのホームグランドとして、クリケット場やラグビー場があり、今でも毎週ゲームが行われています。
ワトソン医師の経歴は、1952年生まれ、ロンドン大学卒表、病院で医師の免許を取り、アフガニスタンへ軍医として従軍、負傷をしてロンドンに帰った後に、独身時代にホームズと出会い、ベーカー街で同居するようになります。その後2度の結婚?でケンジントンに開業した後にまたベーカー街に戻ることになります。
ワトソン博士がブラックヒースの選手だったのは、第二次アフガニスタン戦争(1878年から81年)従軍の前です。20代だったワトソンは病院で勉強しながらラグビーをプレーしてたと思われます。この事件は、ベーカー街での2度目のホームズとの同居の時ですから1898年の事件と思われますので、ワトソン47歳。ファーガソンも47歳から48歳だったと思われ、20年ぶりの再開ではお互いに年をとったと思ったことでしょう。
ワトソン医師もポジションはウイングで、トイメン 同士ラインぎわで厳しいタックルを受けたのだと思われます。(アンソニーワトソンもウイングでしたね)
事件の内容はラグビーには全く関係がありませんが、見事な推理です。実際に物語を読んでください。ファーガソン一家は複雑な家庭環境になっているようです
スリークオーターの失踪
この事件の依頼人のケンブリッジのラグビーチームのウォーバートン主将です。
(ウォーバートンといえば、元ウェールズの主将ウォーバートンと偶然にも同じ名前です)
オックスフォードとの対抗戦(バーシティマッチ)の前日、チームエースの右ウィングのゴドリーストーントンが、突然ホテルから行方無名になったことが発覚し、捜査の依頼をホームズに依頼したとう設定です。
シャローキアン説によれば、この事件は1892年の事件とされていますので、12月のケンブリッジーオックスフォードの対抗戦(12月上旬)の話となります。
オックスフォードとケンブリッジの対抗戦は1872年に始まりました。バーシティマッチと呼ばれ、出場選手にはブルーの称号が与えられます。今ではトゥイッケナムで行われています。林、箕内、岩渕選手などが出場しています。
下記 創元推理文庫 シャーロックホームズの復活より引用させてもらいます。
依頼人のケンブリッジのキャプテン、ウォーバートンはホームズに切り出します。
ゴッドリーストーントン、彼こそはチームの要、チームを動かす原動力なんです。フォワードの二人ぐらい抜けたってスリークウォーターラインにゴドフリーさえいてくれれば一安心。パスにせよ、タックルにせよ、ドリブルにせよ、彼にかなうものはいなくて(中約)
しかし、対抗戦はストーントン無しで迎えることになり、次のような結果になってしまいます。
事件の終盤ホームズがワトソンに尋ねます。
「それはそうと 対抗戦に方はどうなった」 「うん、地元紙の夕刊最終版に詳しく出ている。''1ゴールと2トライの差でオックスフォードの勝ち。 ライトブルー(ケンブリッジのジャージの色)の敗因はいつにかかっても国際級の名手ゴドフリー・ストーントンの、不運な欠場にあると言えよう。(中略)スリークウォーターラインでの連携の不足、攻撃と守備面での弱さ、こうした欠点は重量級スクラムの献身的奮戦を超セ氏にするものだった'' と。」
事件はケンブリッジで解き明かされます。
原作者コナンドイルもラグビー選手だった
原作者のドイルは、アーサーコナンドイルで、1859年エジンバラ生まれ。アイルランドカソリック系の家系です。スポーツも万能で、イエズス会の学校で高校までクリケットを行なっており、チームの主将として活躍しています。さらに医学を志し、エジンバラ大学へ進学。ここでラグビー部に在籍し、学業とラグビーを両立したということです。
エジンバラ大学へ進学したのは1876年でしたので、ちょうどその頃、オックスフォードとケンブリッジのバーシティマッチが始まった頃です。
エジンバラ大学もラグビーでは有名で、多くのスコットランド代表を輩出しています。