ダイナミックプライシングの罪

1,ダイナミックプライシングとは

ダイナミックプライシングとはいわば価格変動制のことであり、最初に定価をつけで売り出すが、その後の売れ行きで価格を変えて売るというものである。売れ残りが出ないようにするのだけでなく、早く売り切れて儲けの機会をしまわないようにするための商売上の戦略だ。
たとえば、売れ残りをスーパーの食品ロスを避ける「見切り」品のようなことである。
近年はこれにAIとビックデータを連動させるというのが、新しい動きである。売れ行きの進度の具合だけでなく、天候など不安定で変動する世の中のあらゆるデータを取り入れて、AIが最適な価格を設定して価格変更を行う。

この新しい動きは、ホテルや旅行パックなどで最初に始まった。天候だけでなく、その時のイベントやTVで関連番組の放映などで、売れ行きは変わる。安く設定してきまうとすぐに売り切れてしまい、高い値段の時よりも設けが少なくなる。逆に高く設定してしまうと、空き室が出たり、欠員が出たりする。このことはこの業界にとっては大きな経営上のダメージに繋がってしまう。

そして、このダイナミックプライシングが昨今スポーツイベントやコンサート、観劇などに採用される動きが広まってきている。

2,ダイナミックプライシングのモヤモヤ

しかし、そこに何故かなにか腑に落ちない、納得できない。モヤモヤが残る。

たしかにガラガラのスタジアムよりは満員のスタジアムのほうが、選手も張り切ってすごいプレーを見せるだろう。

そして押しのファンならば、高い値段でも必ず行くだろう。またもしくは、大谷翔平のホームラン記録がかかるゲームなら、高い金を払ってでも行くだろう。

でも現場ではこんなことが起こっている。

1)最初に定価で買ったのに、もっと様子を観て安くなってから買えばよかった。損した気分でモヤモヤ。
2,)安くなるを期待していたが他に予定をいれてしまったから、安くなっても買わなくなった。そんなことなら他に予定を入れなければよかった。損した気分でモヤモヤ。
3)気がついたら価格がつり上がってしまい、これでは行こうと思ってもも行けないじゃないか。モヤモヤ
4)結果的に値上げに繋がっているんがないのかというモヤモヤ。

このように至るところでモヤモヤを発生させている。

3,ラグビーへの導入(イングランド戦)の結果

ラグビーでも先日のジャパンとイングランドのテストマッチ。これにダイナミックプライシングが導入された。

当初定価で売り出したが、すぐに価格は1000円から1万円ほど値があがった。しばらくはその価格であったが、開催の1W前になると価格は定価割れを始めた。
結局最終的な入場者数は4万4千人で、カテゴリー1、2、3などの高額な席の端のほうは空席がめだった。最初から申込しやすい価格設定をしていれば、もっと観客を集められただろうにと思われる。
たぶんそれでも、日本協会の売上や利益などは最大公約数を得た(もしくは赤字は最小に抑えられた)のだろう。

4,モヤモヤの元とは

こんな直接的な不快感やネガティブな感情となるは序の口である。そこには次のようなもっと本質的な問題点があるように思える。それは、人の尊厳や経済の有りかたそのものに関わるようなことである。

5)まずは、AIに価格を決められ、本来は自由な意志での行動の一部を決められれてしまうという人間の尊厳に関わる恐ようなろしさである。
価格が高くても低くても、買うか買わないかは自由意志だと言われても、こうなっては完全な自由意志はどこか削られている。これは昨今のGAFAによる、個人の行動情報の搾取とパーソナライズした宣伝広告で自由意志をコントロールされれいるというのと、似たような問題である。が少し違っている。コントロールされているという実感の度合いが直接的すぎるのである。またそこに知恵比べをしてAIに負けたというような敗北感や、気おくれが残る。前記した1.2,3、4のモヤモヤの根源はこんな人としての本質的な感覚にマッチしていないからではないだろうか。

これならまだ、高くなってもオークションなどで競り落として購入したほうが納得できる。人の自由意志を発揮できているからである。

6)次に、これは、消費者にベネフィットがあるように見せかけて、最初から最後まで、主催者側の利潤の最大化のための仕組みである点である。消費者からの行動情報の搾取だけでなく、実際の金銭の搾取になっている。主催者側は安くなるっているのだからいいではないかと言うかもしれないが、それも根本は消費者ファースト、利用者ファーストではなく、主催者ファーストなのである。オリンピックの比ではないが、5万人規模のイベントとなれば、大きな金が動く。広告宣伝費、スポンサーの利権、警備日、保険の掛け金などなど。なぜそんな高額な費用がかかるのか、それたは利用者の安全や利便性のためではなく、主催者側のクレーム回避、責任回避のためである。そこに様々な企業が金儲けのために群がってくる。へたをすれば巨額の赤字を発生させるリスクがある。

7)そしてそれがまた、プレイヤーファーストでないとことである。6)のような利潤はプレーヤーにも全く還元されない。というか、儲けなどが第一で、本当に心底ラグビーなどを愛しているという気持ちがあるのかどうかすら怪しい。主催者やそれに関連した利権にむらがる利権で成り立っている。

哲学者のカントは「定言命法」と「仮言命法」という考え方を示している。何らかの結果や報酬を求めて行動をするのが、「定言命法」であり、見返りを求めず、例えば、電車の中で年寄りに席を譲るのに、よく観られたいとか、感謝されたいというように、周りの目線があるので席を譲るのが「仮言命法」だ。

企業は利益を求めるのは当たり前だが、目的は利潤だけではないはずだ。ものやサービスを通じて消費者の生活の向上などを実現するという喜びが先にあるはずなのだ。

不正な改ざんやもみ消しなどを行う企業やそのオーナーは消費者を手段としてつまり利潤追求の「手段」と使っているのだ

スポンサーで多額の資金を提供する企業は、その見返りとしての「利権」を「目標」として先に求めている。ラグビーやラグビーを愛する者たちを「手段」としてしまっていると思うと、なんともやるせない。

 

5,お金と芸術、芸能、スポーツとの関係

そもそも、コンサートやスポーツや演劇など、文化的、芸術的活動は利潤というような現代の欲望追求型の高度資本主義とは反りがあわない。一方、芸術家、演者や作家、また、プロのスポーツ選手でさえ金のためだけに活動しているのではない。自分の中から湧き出るもがあり、また、それを外に出さねばならなくなるような、表現欲がそうさせるのだ。

私達鑑賞者、観戦者も高い金をはらえば良いゲームや良い舞台、芸術を見れるといったら、大間違いである。それらは本来プライスレスな感動なのである。
私は今、小学生のラグビーの指導も行っているが、そこにはときよりワールドカップと同様もしくはそれ以上の感動がある。プロのゲームであっても凡戦で気合がぬけたようなゲームは残念である。そのように感動や喜びは金で買えるものではない。

かつて芸術や芸能、相撲はパトロンやタニマチがスポンサーになって資金を提供していた。そこには不明瞭な金の行き来や、ゴッサン体質などの功罪があり、今では少なくなっている。しかし、いまはお金に糸目をつけない「押し」、いわば「追っかけ」は存在する。しかし、その金は「押し」ている本人には行きわらず、それに関連するグッズやイベント関連の業者の利益になってしまう。
このような金の芸術、芸能、スポーツの関係については、改めて次の機会にもう少し考えてみたいと思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です