ラグビーを哲学する 英国経験論の立場から

新シリーズ「ラグビーを哲学する」をはじめます。このシリーズは、多くの哲学思想にラグビーを当てはめて考えようとする試みです。ラグビーの本質をよく知ることにもなりますが、同時に哲学のおさらいになり、哲学により普段の生活を見直してみることにもつながっていくかなと思っています。

初回は英国経験論にに沿ってラグビーを哲学してみようと思います。

英国経験論はフランシスベーコンに始まり、ロックを経て、ヒュームによって完成しました。大陸合理論に対して、全てのことが経験によって帰納的に積み重なっていくと言う考えです。

フランシスベーコン

フランシスベーコンは、「知は力なり」としました。

ラグビーでも全くその通りで、体の鍛え方、体の使い方、ポジショニング、フィジカルスキル、メンタルスキル、チームスキル、サインプレーなどの戦術、戦法など、様々な知識は強いラグビーチームを作ります。

それらの知識は理屈でなく様々な経験をして獲得されます。
その時に邪魔になるのが、ベーコンのいうイドラ(偏見)です。
イドラには4つの種類があって、

種族のイドラ 人間としての錯覚、思い込み
洞窟のイドラ 視野が狭いことでの思い込み
市場のイドラ 噂話や伝聞による思い込み
劇場のイドラ 専門家による話の思い込み

ラグビーにもいろいろな偏見があって、これらが新しい経験による新しい正しい知識の獲得を妨げていました。

エディージョーンズ以前の日本のラグビーは、このイドラが邪魔をしていました。
ラグビー種族のイドラ(例:体の大きい方が強い)
ラグビー洞窟のイドラ(例:農耕民族の日本人は戦いに向かない)
ラグビー市場のイドラ(例:様々な人が日本ラグビーの限界を指摘)
ラグビー劇場のイドラ(例:世界のラグビーはより進んでいる)

昔の日本のラグビーにはこんなイドラもありました。

まっすぐ当たれ
FWはパスをするな
脳震盪ならやかんで治る
ケガでも休むな
とりあえずランパス100回

体を冷やすな
水を飲むな
休みを取るな
長時間練習
監督の言う通りに動け

ほとんどが洞窟のイドラなのかもしれません。

このように、ラグビーもいろいろな偏見や迷信がありましたが、そのようなものは、経験や実戦で否定されています。実際に強くなるのは実践の経験を積み重ねるしかないです。

日本代表の選手は海外のフィジカルの強さや圧力は実際に体験した者しかわからないと言います。サンウルブスの経験でその経験を繰り返すことで、日本の2019年の結果も出せたと言って過言ではありません。

ジョンロック

続いてのロックは人間はタブララーサ(白紙)の状態で生まれ、経験によって知を獲得していくということを説きました。

人が生まれてラグビーに出会う前はラグビーに関しては全くの白紙状態です。
埼玉県立浦和高校のように、全くのタブララーサばかりを鍛えて花園出場をはたすなどはなかなかできるものではありません。逆に全くの白紙状態なのでラグビーの知識を吸収する能力も高かったのかもしれません。

ジョージバークレイ

バークレイは、アイルランドのキルケニー(個人的にここのレッドエールは大好きです)出身です。カリフォルニア大学バークレイ校の名にもなった人物ですが、さらに究極まで経験論を推し進めました。

「存在するとは知覚されること To be is to be perceived」と言いました。

要するに「見ることができないものは存在しない」とまで言い放ったのです。

現在のラグビーでもTMOを駆使しても見えないトライはトライとして認められません。なかったものとして判断されます。また、パスの相手が見えない時には、ボールを持った選手にはその相手はいないことと同様になります。

デビット ヒューム

ヒュームはスコットランドはエディンバラ出身です。
ヒュームさらに経験論を深めます。その考えは独自でしが、バッサリと言い切ってしまうところに何処か説得力もあります。

このヒュームの書籍を読んだカントは大衝撃(独断のまどろみか目覚めた)を受けることになります。そして10年かけて悩み考え抜いて、あの「純粋理性批判」を書き上げることになるのです。

ヒュームは「人間とは知覚の束」であるとします。「人が知覚するとこと」を分解して把握しようとしました。

観念連合という概念も強調しました。人間が知覚する対象は、印象観念 だとします。印象は外からの刺激の関して、観念は人の中で作りあげられるのだとします。したがって印象は誤りは少ないが、観念は誤りが多く、多くの観念が寄り集まってさらに違った観念を作り上げてしまうというのです。

そして因果関係をも否定します。

「Aという事象からBという結果が起こったとしても、Aの認識も個人の主体的なもの、Bの認識も主体的なものであり、さらにその間も因果関係も単なる慣習的思い込みに過ぎない」としてしまいました。例えばペンを持ち手を離せば床に落ちると言うことを想定した時に、ペンから手を離したと言う主観と、落ちたと言う主観があるだけで、その因果関係は何度も繰り返されたことで思い込んでいるにすぎないと言うことです。これは哲学的に言うと「主観は主観の外に出ることができず、客観的な共有の余地を否定」することであり、当時盛んになって来た自然科学を真っ向から否定することになります。100回の実験で同じことが起こったにしても101回目には違ったことが起こらないとは言い切れないと言うのです。

私はこの話を聞いて、名将大西鐡之助のことを思い出します。

大西鐡之助は、研究者として様々な海外のラグビーの文献を調べ尽くし、さらには自らのチームで勝つための方法を試し、理詰めで作戦を考え、それを実行すると言う科学的アプローチでラグビーを極めた人です。
ロッカールームで綿密な作戦を理詰めで選手に伝えます。

しかし、最後に大西鐡之助はこう言い放ったと言います。

「ええか、理屈やないで!」

100回同じことが起こっても101回目には、何が起こるかわからないのがラグビーだと言うのです。

(余談ですが、ヒュームは、その哲学的思考も独創的で革新的で体系的で論理的でした。なんと言ってもカントに衝撃を与えるほどの影響力です。しかし、懐疑論者で、無神論者、反ジャコバイト主義者で、スコットランとイングランドの統一を支持、白人至上主義者でもありました。かなり偏った思想のもちの主であるらしく、この辺がその後の評価が問われる要因かもしれません。)

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