世界中が人種、民族、宗教などで社会の分断が進んでいる。性別、世代間、貧富の差などでも分断が起きている。人権問題が至るところで火を吹き始めた。さらにコロナの感染拡大がその分断を加速させてしまっている。
20世期の知の巨人、レヴィ=ス トロースによれば、神話は社会の二項対立の構造を緩めてある秩序へと誘うものであるとのことだ。
神話は作られるものである。語り継がれることで事実とは異なってくる。事実と異なっていくことには意味がある。語り手には、そうあれ、そうあってくれという思いが込められてきて、それに共感を持つ者が、それを信じてそれにさらにつけらしていく、そうして神話は神話として成立し、神話として進化していくシン化していく。
そうやって作り出された神話は、やがて、ある倫理や規範をわかりやすく教える例え話としての役割を果たしていく。レヴィ=ストロースの言う様に現実社会の矛盾対立を緩和するものになるだろう。(しかしそのモデルが時の権力者の道具に利用されてしまうことが多いのは問題があるのだが)
ここで話は突然変わる
「残酷な天使の様に少年よ今神話になーれ」
これはご存知「新世紀エヴェンゲリオン」のテーマの歌い出しの部分である。
完全な分断のない世界(=人類補完計画でL Cフィールドがなくなり、魂が全て同化してしまう世界)が良いのか、人間は常に不完全であって、時には愚かな争いはするがわかり合おうと努力しつつづける世界を良しとするのかという論題である。果たして、3月22日のNHK「仕事の流儀」で庵野氏の少年時代の経験から「どこか不完全な愛着を持つ」という本音が紹介された。主人公シンジの選択は行動は、エヴェの呪縛の様に万年少年の庵野氏によるシンエヴェの意図は、果たして神話=シン和になっていくのだろうか?(そう言う筆者は実はまだ最新の劇場版の完結編を見る機会をのがしているのです)
オリンピックパラリンピックに話を戻せば、もはや完全な形でのオリンピックパラリンピックの開催は無理である。いやそもそも完全な形でなければならないということは現想にすぎない。
そもそもスポーツがもたらす感動は神話を作りだしやすい。純粋に自らの限界に挑み、その壁を乗り越えようとする姿はそれだけで金メダルよりも何十倍も美しい。神話は美しくなければならない。スポーツの持つ力は強力である。なんだかんだと言ってもオリンピックパラリンピックがなんらかの形で開催できるならば、スポーツに関心がなかった人も、反対の立場だった人も、そこに涙を流す様な感動を巻き起こすことは間違いがない。感動は世界共通の言語であり、感動は理屈を超え、利害を超え、海を超えて伝わるはずである。壁を越え分断を超えて響き合い、神話になっていくはずである。少しでもわかり合おうとするきっかけになるはずである。
先の2019ラグビーW杯でも、反対や問題を乗り超え実現できたことで、無関心で閉鎖的だった社会全体に「ワンチーム」という神話をつくり出したではないか。
分断が進む現代社会であればあるこそ、今こそそれを打開する神話が必要である、その神話は世界強通言語のスポーツから生まれ出されるのだ。今コロナの中でもオリンピック パラリンピックを不完全な形でも開催する意義はそこにある。