ラグビーを哲学する スピノザ「エチカ」から その1

「ラグビーを哲学する」のシリーズは、多くの哲学思想にラグビーを当てはめて考えようとする試みです。ラグビーの本質をよく知ることにもなりますが、同時に哲学のおさらいになり、普段の生活を見直してみることにもつながっていくかなと思っています。

 

スピノザ その独自のOS

 

この記事は國分功一郎氏の下記の本を参考にさせてもらっています。

スピノザの考えは難解で独特ですが、デカルト的に事実を突きつけ相手が反論できなくなる論法が常識となっている現代の考え方を見直すきっかけになります。
國分功一郎氏によれは、「考え方のOSが違う」というのもわかります。さらに「あり得たかもしれないもう一つの近代」であると述べています。

 

スピノザの考えは多岐にわたり、複雑で難解です。誤解を承知でスピノザの考えをはしょって15行で話してしまうという暴挙を許していただければ、下記のようになります。

神は宗教的な神でなく、自然そのものと考えます(=神即自然)。

自然界のあらゆるものの本質は、自己を維持しようとする力(=コナトゥス)である。人も自然の一部であり、神の実体の変状(神のあらわれ)としての様態(延長の属性としての体、思惟の属性としての魂)(=心身並行論)である。したがって全ての結果にはその原因がるように、人にも完全な自由意志はない。自由意志があると思うのは、意思の存在は意識するが人は全ての原因を意識できないからである。しかし、人はコナトゥスを増強させることで能動的自由度が増えていく。このことはであり喜びである。人は外界からの刺激の中で真実に出会うことで自ら変状していく、外界の刺激をよく捉えられるようにするには、余裕を持つことと学習が必要である。自分が好ましいと思う刺激を楽しむことができる人が賢者である。自分だけでなく、社会全体のコナトゥスが増大するような社会が望ましい。現存するいかなる社会体制も完全ではなく、都度社会契約は更新し続けることが必要である。

スピノザの考えは、現代の「持続可能な社会(サステナビリティー)」につながる考えだと思います。また、「全ての個体はそれで完全な形である」という考えはマイノリティを尊重する「多様性社会(ダイナシティー)」そのもののです。形や見た目でなく、本頼の力を記述する方法は生態学(=エソロジー)に綱がります。真実や自由の意味も独特です。「神即自然」という考えは、自然法則や自然科学を肯定することにもなります。認識と肉体の関係は最新の脳科学です。
人や社会、自然に対する優しさや、謙虚さ、力強さ、思いやりも感じます。

スピノザの根本をなす「神即自然」の考えも共感が持てます。私たちは雄大な大自然の景観や、朝日や夕陽、満天の星空を眺める時に、そこに敬虔な気持ちや永遠や無限、悠久を感じると思いますが、それは人として自然なことと思います。日本人の持つ神感「八百万の神」の感覚にも近いかもしれません。
欧州でもキリスト教の前までのケルトの文化では自然崇拝でした。それは民衆の中に今でも根強く残っています。

これだけではわかりにくいし誤解をあると思います。今回は導入としてスピノザの生きた時代を振り替えり、その後何回かに分けてラグビーと絡めてスピノザの哲学を改めて紹介し、理解していきたいと思います。

スピノザの生きた時代

今回は導入で、スピノザの生きた時代背景とスピノザの人生を紹介したいと思います。

スピノザは1632年アムステルダムのセファルデム(スペインから迫害を逃れて移住したユダヤ教徒)の一家に生まれます。1632年はオランダはまだ30年戦争の最中です。30年戦争はヨーロッパ中を巻き込んだ宗教戦争で多くの国は退廃します。
30年戦争は1648年に終結し、ウエストファーレン条約が締結、オランダの独立が認められました。オランダはこれを機に世界の貿易を牛耳り、経済的には最絶頂期を迎えます。(しかし、アンポイナ事件から英蘭の派遣争いは続くのですが)
スピノザはユダヤのコミュティーで、ラビとなる訓練を受け、商人の道を歩み始めますが、ユダヤ教やキリスト教にもない独自の考えを持つに至ります。よく、商業が盛んになり異文化の交流があると、そこに新しい哲学や思想が生まれるということが言われますが、スピノザもそうだったのかもしれません。
しかし、時はまだ17世紀です。スピノザ の考えは斬新すぎて反感を買い、ユダヤ教からは波紋され、暗殺されそうにもなります。劇場から出たところを暴徒に襲われ、コートの上からナイフで刺されました。コートには穴が空いたくらいで傷は浅かったのですが、この時のコートをスピノザは「我が民衆の記念として取っておく」といいました。
「私は命をかけて、民衆に真実をつたえなければならない。身の危険を考慮しながらも真実をつたえるのが哲学者だ」と言い残しています。
そして、スピノザはレンズ磨きをしながら生計を立て思索に耽ったという話は有名です。

スピノザは1664年には共和制の最高指導者、ヨハンデウィットととも交流を持つことになります。

しかし、全盛期のオランダですが混乱は続きます。
1665年には第二次英蘭戦争が勃発します。英国が北米のニューアムステルダム=今のニューヨーク)を占拠し、ヨハンの兄コーネリウスは、テームズ川をチャタムまで遡り大砲をぶっ放し、当時の英国最強軍艦ロイヤルチャールズ捕獲します。

ヨハンデウィットはこのように英蘭戦争を戦いますが、戦争終了後、弱気の講和条約を結んだと民衆から反感を受け失脚します。

こんな中、スピノザ は1670年に「神学政治論」を急遽、匿名で出版します。しかしこれは発禁となり、スピノザ の書であることもわかってしまい、スピノザも窮地に落ち入ります。

ヨハンデウィットはついに1672年、兄と共に反対派の民衆に虐殺されます。逆さづりにされ、腹を引き裂かれ、内臓をえぐられ、民衆はその内臓をステーキにして分け合って焼いて食べたという恐ろしい事件です。
この事件は一枚の絵が残されています。私がこれまで見た中で最もおぞましい絵の一つです。

ヤンデバーン1672

スピノザはこの事件に珍しく我を忘れて、「汝ら野蛮極まる者ども」と怒り狂ったと言い抗議のビラを作成ます。しかしビラをまく行為などは思いとどまります。

スピノザは「無知者」に「世の中に真実を伝えなければ」と「エチカ」の執筆を急ぎ、「エチカ 」を完成させます。完成させたのは1677年のことです。ただし、混乱の状況を踏まえ出版のタイミングを一時見合わせました。それがなんということか、スピノザ は「エチカ」 が世に出ることを見届ける前に病気で亡くなってしまいました。

スピノザ の死後、友人たちが少しの金を持ち合って、エチカ の出版にこぎつけました。「エチカ」との題名はスピノザではなくこの時友人たちがつけたものです。「エチカ」は倫理という意味ですが、ギリシャ語のエートスが語源です。エートスは自分の慣れ親しんだ場所、住処という意味があります、「エチカ」はまさにそこで人がよく生きるための知恵を語る書であることをうまく表現しています。

エチカは当時出版後間もなく禁書に指定されます。

しかし、「エチカ」に書かれていることは、その後も偉大な科学者や哲学者に多大な影響を及ぼすことになります。

 

アインシュタイン
「私はスピノザ の神を信じる」

ミシェルフーコー
「デカルト 以降、真理は単なる認識の対象になってしまった、たった一人の人を除いて、その人の名はスピノザ だ」

 

スピノザの言葉

スピノザの優しさや謙虚さを表す言葉が残されています。
私の好きな言葉です。

「嘲笑せず、嘆かず、呪わず、ただ理解する」

ばかにしたりせず、諦めたりせず、怒ったりせずに、謙虚に耳を傾けたり、物事を理解しようとする姿勢です。

スピノザ に言わせれば、物事には全て原因があって、人に完全な自由意思はないのです。外部からの圧倒的力に屈してしまうことも多い、自殺や依存症、適応障害、不登校などコナトゥスが踏みにじられた状態であり、その原因はほとんど外部にあるのです。

こんなのものあります。

「理解することは同意することの始まりだ」

世の中には様々な考えがあります。社会的な立場や肩書の人の発言は重みを持ってしまいます。言ってはいけないこと、言い方を間違えてしまうことが多すぎます。

相手の発言の言葉尻を捕まえ、バッシングしたり、自粛警察など、SNS上では無責任で無神経な発言が飛び交いしばしば炎上します。それらの非難の発言をする人も、外部要因であるコロナでの生活のストレスに押しつぶされ、吐口にしているだけなのかもしれません。そのような安易な発言は社会や世界の分断を引き起こすことになってしまっています。

これは今、大阪なおみ選手の会見拒否の問題をどう考えるかという問題でもあります。

 

 

 

 

 

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