ラグビーフランス大会の開催都市と会場を予習していくシリーズです。
開催都市とスタジアムは下記の9つが決まっています。
サンドニ(パリ) Stade de France 80688人
デシーヌ=シャルピュー(リオン) Parc Olympique Lyonnais 59186人
マルセイユ Stade Vélodrome 67394人
ニース Allianz Riviera 35624人
ボルドー Matmut Atlantique 42115人
トゥールーズ Stadium Municipala 33150人
ナント Stade de la Beaujoire 35322人
ヴィルヌーブダスク(リール) Stade Pierre-Mauroy 50157人
サンテテディエンヌ Stade Geoffroy-Guicharda41965人
注)収容人数は1月現在のもの、実際のチケット販売数は当然違います。
スタジアム名は現在ネームライツが使われていますが、W杯ではネームライツは使えないので名称も変更になります。
3月には開催のスケジュールが発表されます。
今回は一挙に南に下がり、南仏ニースの紹介です。
この地域もラグビーファンにとっては見逃せない地域です。なんと2023年に生誕200年を迎える、伝説のエリス少年の墓がある場所です。これについても後ほど詳しく述べたいと思います。
1、ニースの位置とスタジアム
パリから南仏のニース までは1000Kmの距離があります。
飛行機:約1時間30分
電車:約6時間 TGV利用
車:9時間
バスもあります13時間くらいかかりますが一番安い(2500円程度)です。
アリアンツスタジアムはニースの町の西にあります。
https://ja-jp.facebook.com/AllianzRiviera/
http://www.allianz-riviera.fr
2、リビエラ?、コートダジュール?、プロヴァンス?
プロヴァンス はローマ時代の属州を表す言葉で、「アルプスの向こう側」の意味です。フランスの南東部の一帯を指します。山岳地帯までを含む大きな地域となります。イタリアの国境付近からマルセイユ、ローヌ川の河口付近からまでを指します。というよりアヴィニョンやアルルあたりがその中心です。
リヴィエラはイタリア語で海岸の普通名詞で、元々は保養地としてのサンレモ付近の海岸のことを指しました。そのうちにに拡大して、フランスのトゥーロンまでを指すようになりました。日本でも湘南海岸と言っても、江ノ島あたりだけでなくだんだん拡大して現在では二宮から小田原なども含まれるようになったのと同じなのでしょう。
イタリア側から重要な保養地を順に西にたどると、サンレモ、モナコ、ニース 、カンヌ、サントロペ、トゥーロンとなります。
大滝詠一、松本隆の名曲「冬のリヴィエラ」の舞台の街はこの中のどこかだと思われます。港からアメリカの貨物船が出ていくとなると軍港のあるトゥーロンあたりでしょうか。
コートダジュールは「紺碧海岸」の意味です(決してカラオケ店のことではありません)。リヴィエラのうちフランス側のトゥーロンまでの海岸です。フレンチリビエラとも呼びます。
3、エリス少年伝説と、エリス少年の墓について
ラグビー会の最も有名な伝説といえば、エリス少年の伝説です。
このエリス少年の墓が、W杯の行われるニースの近くにあります。
伝説によれば1823年イングランド北部のラグビー校のフットボールのゲームの中でエリス少年はキャッチしたボールを手に持って衝動的に走り出したとされます。ワールドカップの優勝杯もエリス少年の伝説にあやかって「エリスカップ」と名付けられています。2023年はエリス少年が手にボールを持って走り出してからちょうど200年という節目の年になります。
エリス少年は実在の人物で確かにラグビー校に在籍していました。ラグビー校の生徒ならばフットボールをプレーしたことは間違いありません。エリス少年はラグビー校卒業後、宣教師になり、キリスト教を説教して周り、大陸に渡っとされます。その後の足取りは謎だったのですが、1959年になって、エリス少年の墓が見つかったというニュースが流れました。それが、ニースの東 、マントンという町にあるの海の見える丘の上の教会の地下墓地でした。
ラグビー博士でJスポーツラグビー解説でお馴染みの小林深緑郎氏の名著「世界ラグビー基礎知識(2003年初版)」によれば、その後フランスラグビー協会がエリス氏の墓を新しく建て直し、その教会の地中海の見える丘の上に埋葬し直したということです。教会の裏手の4段の墓石の内の下から2段目にあり、そこには5種の銘板が置かれていいるということです。
ニース からモンマントンまでは電車で約1時間、足を伸ばしてみたいものです。
墓地はマントンの町の北東の丘の上です
CIMETIERE DU TRABUQUET
トリップアドバイザー参照
4、ニースとリソルジメント(イタリア統一運動)
イタリアの英雄、イタリア統一(リソルジメント)の立役者の一人がガリバルディです。今でも多くのイタリアの都市の通りや駅名(ミラノなど)になっています。ガルバルディはニースの出身でした。でも今ではニースはフランスの一部となっています。どうなっているのでしょう。
そこで、ガリバルディとイタリア統一(リソルジメント)の歴史をおさらいしてみましょう。
ニースは古代ローマ時代からイタリアの文化圏としての影響下にありました。
しかし、中世からフランス人が多く移り住んだこともあり、何度も国境線は変わりました。
1804年には住民投票でフランスになりましたが、1815年ナポレオン戦争後の「パリ条約」でサルディーニャ王国の一部にされました。
イタリア統一運動(リソルジメント)は秘密結社「カルボナリ」から始まります。カルボナリは立憲君主制を実現させるための秘密結社でその実態は今でも謎に包まれています。何度かイタリアの中で紛争を起こしますが、オーストリア、外相メッテルニッヒによってことごとく破られてしまいます。その一員だったマッツティーニは失望して新たな組織急進的な「青年イタリアを組織します。そこで活躍したのが、ガリバルディでした。「青年イタリア」の活動でローマを制圧し一時は「イタリア共和国」の成立を見ましたが、今度はナポレオン3世の介入で頓挫してしまいます。
そのころ、サルディーニャ王国(イタリア半島の付け根西部分)の王様ヴィットリオエマニュエーレと首相のカブールは、やはりイタリア統一に情熱を燃やしていました。じゃまなのはロンバルディア地方を支配しているのはオーストリアでした。弱小のサルディーニャにとっては当時のオーストリア大国です。そこでカブールは、フランスを仲間に入れることを考えます。温泉療養中のナポレオン3世に近づき、「プロンピエールの密約(1858)」を交わします。内容は、ロンバルディア進出の援助と、ローマ中部イタリアに駐留中のフランス軍の撤退の要求で、その交換条件としてニース とフランスに割譲するというものです。
イタリア統一を目指していたガリバリディは一旦は挫折しましたが、イタリアに戻っており、新しい組織「赤シャツ隊」を作ります。(制服もなく肉屋で余っていた赤いシャツを全員で着たことから赤シャツ隊となったと言います)。「赤シャツ隊」は両シリリア王国(イタリア半島の先端とシチリア)を転覆させ、支配を握ります。たった千人なのに大進撃です。
ガリバルディはサルディーニャのカブールが、出身地のニースをフランスに割譲したことを聞いた時に激怒したと言います。
北から南下を目指すカブールと、南から北に進軍するガリバルディ、この2大勢力の激突は避けられないとみられました。
ついにトリノの北付近で両軍が対峙します。「スワ関ヶ原」と緊張が走ります。
1858年10月2日ナポリ北方のテアーノで両者は会見し、ガリバルディはシチリアとナポリの統治権を無条件で国王に献上しました。こうして最後の戦いは行われず、平和にイタリア統一がなされたのです。
ガリバルディは現実的な考えの人でした。イタリアの統一ということが目的であり、その崇高な目的のためには私利私欲を絡ませませんでした。出身地のニース がフランスに渡るなんでことは、腹の中では苦々しかったと思いますが、なんとかそれを抑えて、平和にイタリア統一を果たしたかったのだと思います。
ニースはイタリアに近いので、W杯では当然イタリア戦が多く組まれると思います。2019年大会では台風で実現しなかったオールブラックス戦が組まれるなら最高に盛り上がるはずです。その時は、ガリバルディにちなんで是非とも「赤シャツ」でイタリアを応援したいと思います。