1,時代は変わる
60年代に明らかに時代は変わった。保守的で優等生の時代から、自由とリベラル。平和と愛と平等、セックスとドラッグとロックロール。その移り目の象徴とも言える65年ニューポートフォークフェスのディラン。
それまで、最先端のムーブメントとされたフォークリバイバルも硬直化して保守的になっていた。映画の中で描かれているのだが、64年の同じフェスのなかで「時代は変わる」を歌うディランに、ノーテンキに声をあわせる観客が、翌年に起きることを知っているぼくら映画の鑑賞者には、あまりにも滑稽に映った。
そして、現在。2025年。それ以来ぼくらが大切に育んで、信じていたその自由でリベラルな社会というものが、音をたてて崩れつつある。奇しくもニューポートからちょうど60年。今や、極右やリバタリアン、極端なピューリタリズム、テクノ封建制が幅をきかせる。マイノリティは置いてけぼりで身勝手がまかる通る社会。その象徴がトランプだ。「すぐに泳ぎだしたほうがいい」のだろうか?
この映画が今年2025年(2024年)に公開になるのは意味をもつ。
映画のエンドロールの曲が、「時代は変わる」でなく、「風に吹かれて」だったことにも考えさせられる。ここで「時代は変わる」だったら、2024年から25年の今の社会の変化を追認してしまうことにもなりかねない。時代は変わったにしても、戦争や暴力だけはいただけない。でも答えは「風の中」でしかないのだ。
2,正体不明
タイトルの、ライク・ア・ローリング・ストーンの一節である「A COMPLETE UNKNOWN」を「名もなき者」という日本語タイトルにしたのはどうだろう。「許されざる者たち」、とか「負けざる者たち」など、「者もの」でヒットしたクリントイースト映画にあやかとろうとした意図が見え見えじゃないか。ディランを知っているオールドファンは、「ディランの頭の中」を少しでも知りたいと映画館に足を運ぶだろうが、見事に裏切られる。映画を通して無表情でシニカルなディラン。見終えても『ディランの頭の中』はわからない。映画がまるでディランそのものだ。それこそ「A COMPLETE UNKNOWN=正体不明」だ。でも「正体不明」というタイトルだったらネタバレになってしまう。
映画で貫かれたのは、ディランは最初からフォークの人や、反戦運動や公民権運動の旗手ではなかったということだ。また変革をしようとするだいそれた意図もなく、ウディ・ガスリーやピート・シーガー、黒人の音楽にもリスペクトを感じる。ディランはただ、その時の思いを純粋に歌にしたいだけの不器用でナイーブな男であるということは描かれてる。
3,続編に期待
当時のことをすこしでも知っているファンにとっては、大小の有名無名のディランのエピソード満載である。ガールフレンドのスーズロトロやジョーン・バエズとの軋轢、ウッディガスリーへの見舞い。ジョニーとの交流。また曲にまつわるエピソードもたくさん出てくる、スタジオで即興でハモンドを弾くアルクーパー。「ハイウェイ61」に聴かれる笛の入手。などなど。(でも、ジョーン・バエズとの一夜で「風に吹かれて」が完成するなどはちょっと脚色が過ぎだったかも。)
ディランはこの後、ロビーロバートソンをはじめバンドの連中とツアーに出て、ビートルズにクスリを教えてと、その後のエピソード満載である。なんども出てくるサーカスの話題も74年のサーカス集団を模した「ローリングサンダーレビュー」のツアーを思いおこさせるし、最後にバイクで疾走する姿は、その後の悲惨なバイク事故と隠遁生活を暗示させる。続編もいくらでもできそうだ。(個人的に、主演のティモシー・シャラメによる「雨の日の女」や「ジャストライクウーマン」、「ハリケーン」、「天国の扉」も聴いてみたい)
ただし、スパイスの効いた続編が作られるタイミングは今ではない。変革が収束し、世の中が落ち着いた時であるべきかもしれない。