「ラグビーを哲学する」のシリーズは、多くの哲学思想にラグビーを当てはめて考えようとする試みです。ラグビーの本質をよく知ることにもなりますが、同時に哲学のおさらいになり、普段の生活を見直してみることにもつながっていくかなと思っています。
今回から2回に分けて最難関と言われるカントの哲学です
今回はカントの生い立ちとその興味ある暮らしぶりを紹介したのちに、「純粋理性批判」による理性のうちの理論理性を取り上げます。
カントの生い立ちと暮らしぶり
カントはプロイセンの港町ケーニヒスブルグ(現ロシア領カニーリンググラード)の生まれです。カントは非常に真面目で几帳面で、時間に正確、食事は1日1食、毎日3時半から決まった場所を8往復するという散歩をかかさず、健康にも気を配る生活だったいいます。周囲の人はカントの散歩に合わせて時計を合わせたと言う話です。旅行嫌いでケーニヒスブルグの街から外に出ることはなく、生涯独身で、長く老僕のランペと二人暮らしでした。
こうなると堅物で厳格な性格と思いきや実際はその逆で、友人を招いてウイットに溢れた会話を楽んだり、講義もユーモアにあふれ人気だったと言う気さくな面もあったとのことです。老僕ランべは40年もカントの世話をしましたが、最後の方にはそれでもやってられなくなってついに酒に走り、カントはやむなく解雇した話とか、ルソーのエミールを夢中で読むふけっていたので、一度だけ散歩の時間に間に合わなかったことがあったと言った逸話もあります。
当時は、自然科学が一般的になって、宗教への信仰心が揺らぎ、哲学界では認識論の分野で、デカルトなどの「大陸合理論」とロックやヒュームの「英国経験論」の論争で分断していました。
カントはニュートンの自然科学に傾倒し、哲学的には大陸合理論の立場でした。しかし、晩年に科学を真っ向から否定するヒュームの著作を読んで大衝撃を受けます。カント自身の言葉によれば「独断のまどろみから覚めた」と言うことになります。そして10年の歳月をかけて、現在でも哲学史上最も重要な本とされる「純正理性批判」を書き上げました。57歳の時です。カントの狙いはそれまでの哲学を破壊し、科学の客観性を担保し、さらに哲学の新しい道を指ししめすことにありました。
カントの認識論
それまでの認識論は対象物の存在があって、人がそれを認識すると言う立場でしたが、カントは「認識が先で対象がそれに従っている」のだと言う「コペルニクス的展開」を図ります。そして人には世界の人間共通の物差し(眼鏡?)があるのでそれに基づくことで個別の主観は客観性を持ち得るのだと言うものです。まずは「感性」が働き空間と時間の大まかなことを捉えます。それを「悟性」が持つ「アプリオリ(あらかじめ持っている)」な物差し(=カテゴリー )を当てて「判断」することで、主観的に認識が得られると言うのです。その悟性の判断基準は共通のものさしなので主観は共有されるとします。その世界を「現象界」と呼び「物自体(ものそのものの背後にあって動かしているもの)」は把握できないとします。捉えることのできないもの自体のある世界を「叡知界」としました。悟性の判断には3つあって、分析判断、統合判断、アプリオリな統合判断となります。
ラグビーでのチャンスの認識論
論点
「いかにして(主観的であるはずの)チャンスの到来を、一瞬でチーム全体の(客観的)チャンスとして共有できるのか」
まずチャンスの認識からですが、最初にチャンスがあって、それを人が認識するのではなく(=認識が対象に従う)のではなく、何らかの現象(スペースがあるなど)を、人の理性=悟性が働き、チャンスととらえることで、その現象はチャンスになるということです。(=対象が認識に従う)。ゲームの中で起こったことをチャンスと捉えられなければ、それはチャンスでも何でもないのですから、カントのいっていることは納得できるのではないでしょうか。
次の問題は、これは哲学で言うところの「主客一致」の問題です。
経験論に寄れば、人は経験によってしかよってしか対象をとらえることができず、主観の外にはでられず、よって、客観性は得られない。合理論によれば経験によらずに考え抜くことで答えは出せるのですが、それも主観の外にはでらればい。したがってある一人の選手がチャンスと捉えても、その認識は主観的なもので客観性を持ったチャンスとしてチームで共有できません。
カントは、人は主観の外にはでられないと言う立場をとりながら、個人的な主観と主観を合わすことで、現象を客観として共有することができると説明します。なぜなら主観の判断を司る悟性には「アプリオリな総合判断」の物差しがあるとするからです。この物差しをカントは「カテゴリー」と呼びました。
広がりはスペースである=分析判断
広がったスペースはチャンスである=総合判断
広がったスペースはにボールを蹴ればさらにチャンスになる=アプリオリな総合判断
悟性のうちに経験から来る総合判断が優れているに違いありません、さらに悟性の持つ物差しのうちの「直感の公理=外延量の原則」があります。「経験の類推」の部分で因果律(こうなればこうなる)や相互性(立ち位置や間隔など)が働き、そのスペースはチャンスになるとそれぞれの主観が一致すると言うことになります。
しかし、それら悟性のうちの判断基準の共有ができていても、最初に情報収集する感性の部分を鍛えなければなりません。NHKの最新技術でボーデンバレットの視線を追うと様々なところにアンテナを張り巡らしていることがわかりました。これは肉体的なことですので、チーム内の練習で共有し鍛え上げることが可能になります。まずここでの情報収集能力としての感性を磨き空間的時間的に十分なスペースをとらえることから始まるのでしょう。
最終的に感性と悟性の働きで、モヤモヤした状況をチャンスだと言う共通認識が形成されると言うことだと思います。