「ラグビーを哲学する」のシリーズは、多くの哲学思想にラグビーを当てはめて考えようとする試みです。ラグビーの本質をよく知ることにもなりますが、同時に哲学のおさらいになり、普段の生活を見直してみることにもつながっていくかなと思っています。
大陸合理論の立場から考えてみます。英国の経験論に対して大陸合理論は経験に頼らず、頭の中で考え抜いて真理にたどり着こうそします。演繹的手法です。
デカルト
デカルトは全てを疑ってかかって思索を巡らせます(方法論的懐疑)
経験は誤解、思い込みなど様々なノイズを含んでいるので、ノイズがバイアスとなって正しい判断や思考を阻害することに繋がりかねないと考えたのです。
人間には良識(ボンサンス)があり、良識を持って考え抜けば、経験に頼らずとも真実に近づくはずだと考えます。
そして、デカルト時はこれぞ絶対に正しいと言う唯一の真理にたどり着きます。
それが、コルドエルゴスム「我考えるゆえに我あり」です。
デカルトの思想は真理を追求し、明確で疑う余地のない答えを探し、他者を説得し、納得させるということです。現在の科学技術や多くの学問は、一般的な考えは、デカルトの考え方に沿っています。その意味でデカルトは現代社会世に多くの貢献をしていると言えます。
ラグビーもラグビーの真理は何かを考えてみる必要があると思います。
基本に立ち返るということです。ラグビーの要素を個別に分解し、これは間違い無いと言う最小単位の真理を見極めそこから積み上げるという作業も必要かと思われます。
そのためにラグビーの全てを、疑ってみることも必要なのではないかと思います。
例えば、ラグビー憲章に掲げられる「品位」「情熱」「規律」「結束」「尊重」はどうでしょう。どれがラグビーの根本のコアバリューなのでしょうか。
例えば、ラグビーとケンカの違いはどこにあるのでしょうか、などなど、ラグビーで哲学する題材はたくさんありそうです。
一度何がラグビーなのか、ラグビー的と言えるものは何かを、考えてみた方がいいと思います。
ある人は 「ラグビーは格闘技である、だから戦いである」と言います
ある人は 「ラグビーは精神を開放させる、だから祭りである」
ある人は 「ラグビーは楽しい、だから遊びである」
究極の真実はどれなんでしょう、何にラグビーを感じるでしょうか。
私は日本の各地に残る神輿や山車の伝統の祭りの中にラグビー的な何かを感じる時があります。博多山笠を初めて見た時にとっさに「これはラグビーだ」と感じました。開放感、集団性、肉弾性、闘争心、緊張感、スピード、本能性、神聖なものへの対峙性などが、そう思わさせたとだと思います。そこに共通点があるのだと感じました。
デカルトの立場は体と精神は別物という物心二元論を主張しますが、現在その考えは否定されて、心と体は一体だということはが一般的です。
マッケンジーのキック前の微笑みや、ゴロー丸のルーティンなど。さらにはオールブラックスのハカなどは行動や体が心を変えて、さらに心が行動を変えていつもの通りにキックを決めさせると言うところまで来ています。
2トライ2ゴールでは追いつけない展開になってしまうと、メンタルが折れてしまいます。すると突然大差のゲームになってしまいます。
スピノザ
スピノザは17世期オランダの思想家で、ユダヤ教の人です。しかし、全ての真実を世に知らしめようとして、ユダヤ教からもキリスト教からも危険人物とされて拘束されてしまいます。15年かけて執筆した「エチカ」も、死後に友人たちが編纂して出版したものです。
エチカは倫理の意味です。スピノザは道徳と倫理をこう定義します。
道徳:上からこれが正しい、こうしろと命令してくるもの
倫理:今いる自分が何が正しいか判断して実行するもの
スピノザはのちのニーチェなどの実存主義に近かったのかもしれません。
神の存在を認めますが、神=自然という汎神論を考えます、しかし独自の神の考え方は理解されませんでした。無神論者=危険人物とされても仕方がなかったかもしれません
スピノザの考え(善悪は何か、本質とは何か、自由とは何か、など)は全く独自なのですが、現代の常識というものを覆す考えなので、別にまとめてみたいと思います。
ライプニッツ
ライプニッツの考えは「モナドロジー(単子論)」と「予定調和説」です。
現実世界を細かく分解していくと、これ以上分解できない単位になるると考えました。これがモナドだというのです。モナドは広がりを持たない実体(それ自体で意思を持つ存在)であるとして、これらが集まって形になったり、人や物を動かしたり、状況を変化させたりすると考えました。モナドには窓はなく情報交換をすることもない。しかし、モナドはモナドに影響を及ぼし、原因となり、結果となっていくと考えます。その結果、結局神の望んだとちょうどいいところに落ち着く=予定調和)と感考えました。私たちの生活で嫌なことや都合の悪いことも神が望むこのなので、善しとして受け入れるべきだと考えます。
私も時々ラグビーの神様が存在するのだと感じる瞬間があります。
そして、ラグビーの神様はとんだ悪戯をすることがあるのです。
ラグビーの楕円球はもちろん予測を超えた転がりをしたりします。また、急に風が吹いたり、プレースキックの直前で転んだり、タックルがたまたま頭部に行ってしまいレッドカードになることが散見されます。
花園の準々決勝 東福岡と東海後半16分からは21−21で全く得点動かず、力が拮抗したままとなります。それが30分を過ぎても一向に止まることはありませんでした。ラグビーは反則では終わりません。結果的には後半だけで48分(前後半合わせで80分)の引き分けのゲームになりました。
そのようなときは、きっとラグビーのモナドが働いて、予定調和に導いているさのかもしれません。
2019年のW杯決勝は、南アフリカの優勝で終わりました。対戦相手のイングランドは、準決勝戦のオールブラックス戦でハカを貶める行為をし、決勝で負けた後も現実を受け入れずに、準優勝メダルをすぐに外すなどの品位に欠ける行為をしました。対する南アの姿勢は、熊谷でのジャパン戦を見た時から一貫してしました。極貧から出発したコリシキャプテンを初め、チーム全体が謙虚にラグビーに向き合うという姿勢です。これはまさに好対照でした。
決勝戦が終わり、決着がついた時、私は思ったものです。
「ラグビーの神様は存在し、ちゃんと見るべきところは見ているんだな」と
その後のイングランドの銀メダル外し行為は、やっぱりそうだったからなんだと妙に納得したものです。