ジョージアの歴史
まず紀元前12世紀にはコルヒス王国が繁栄(これはアルゴ探検隊の頃です)。その後紀元6世紀にはコルキス王国が設立。この頃は独自の宗教でした。このころからすでにワイン作りが始まっています。その後西海岸はギリシャに併合されたこともあります。ギリシャ世界においては東の世界の果てでした。船でいける限界の地点。
紀元4世紀にはキリスト教が普及し、その後はビザンツ帝国、ペルシャ帝国、ローマ帝国、アラブの侵略などを相次いで受けます。
11世紀にバクラト朝でタマラ王女のもと安定し、国として最高潮を迎えます。さらに13世紀にはジョージア黄金時代として。絵画や文学、建築など豊かな文化も花開きます。
その後13世紀から14世紀はモンゴルが勢力を伸ばし100年も支配下にありました。15世紀、モンゴルが去った後は、全土が分割しバラバラになってしまいます。そうなると何度ともなく近隣のイランやトルコが侵攻してきます。これを逃れるために大国ロシアの支援を求めます。
ついに、1801年にロシア帝国がグルジアを併合。
1918年に一度ロシアからの独立が叶います。しかしそれもつかの間、赤軍が侵攻し、ロシア革命勃発。以後ソビエト連邦下に置かれることになります。
ジョージア現代史
ソ連傘下では、オリンピックのレスリングなどでジョージアの選手が冷戦時代ステイトアマとしてメダルを取りつづけます。
ゴルバチョフのペレストロイカも行き詰まり冷戦終了。グルジアでは民主運動が起きますが、これをトリピシ事件(4月9日の悲劇)でソ連が武力で弾圧。これがさらに民主化運動に火をつけ、1991年にジョージア共和国として独立します。
しかしジョージア内にも民族問題はくすぶっており、南オセチア問題、アブハジア問題など、一時は内戦状態にもなります。
シュワルナゼ大統領の安定政権の下、憲法も制定、国名も共和国をとって「ジョージア」とします。西側化政策が進められます。
ただし、安定政権内に腐敗や締め付けなども出始め、これに若者が反発。2003年非暴力の象徴として手にバラを持った民衆が集まり、「バラ革命」で無血の政変が実現します。これは近隣のウクライナなどの「オレンジ革命」、キルギスの「チューリップ革命」などに影響をもたらします。
選挙の結果大統領になったサーカシビリは、さらに西側の政策を進めながらもロシアとの関係改善にも努めます。
2015年に日本での呼び名も正式にジョージアになります。
ジョージアの歴史まとめると
まさに世界史上の重要な出来事を、全て書き連ねることになるような国です。
もう少し言い換えれば、数千年前の古代から独自の文化で繁栄した地域だったが、常に、世界の覇権争いの中に巻き込まれて、数奇な運命をたどっている国であるといえます。
この地域が東洋と西洋のちょうど中間に位置しているせいで、東方からの侵略や西洋からの介入、南からのアラブの侵攻、さらには北方のロシアソ連のパワーなど、時代が変わり、勢力が拡大する国にその都度巻き込まれるという運命。
しかしながら、この地域にあって、周囲から孤立しても、キリスト教(国教会)を守り続けた国であったともいえます。グルジア正教会のなどは世界遺産になっています。
祝 栃ノ心 大関 復帰