トーナメントという言葉は、欧州中世からルネッサンスまで行われた馬上槍試合からきている。鎧をつけて馬にまたがり、槍を持ってすれちがざまに相手を馬から落とし合う。中世の王族にとっては、戦争もスポーツ感覚であり、それを模した馬上試合も王宮の庭先で行われた。これがトーナメントである。そもそも1対1の戦いであり、優勝を決めるものではなかった。トーナメントは競技会を指す言葉であり、勝ち残りで優勝を決定するものとは違うのである、
トーナメントを日本ではノックアウト方式(山型を作って勝ち残り方式)の負ければ終わりで、ナンバーワンを決める方式の選手権大会のことを指す様になってしまっていた。ナンバーワンを決めるにしてもノックアウト方式以外に様々な方法があるのにそれが使われることがあまりない。
高校野球を代表とする全校選手権大会など、日本の学生スポーツの多くは負ければ終わりの大会で、競技者には突然に残酷に「終わり」が突きつけられる。半分は1回戦で消えることになる、そして復活のチャンスは与えられない。
開催する側としても時間的制約、会場の制約の中で多くのチームの参加を組みやすいという利点もある。しかしこれは運営側の怠慢ではないか。
確かに、負ければ終わりの方式は、見る方にとってはスリリングであり、ドラマを生み出しやすい。しかしこれは、見る方のエゴではないか。
ノックアウト方式の大会運営は一般にもわかりやすく、視聴率もとりやすい。観客も集めやすい。これは放送電波の悪用ではないか。
ノックアウト方式は、勝利至上主義を作り上げ、勝利至上主義は、個人の個性や人間性を無視して、猛練習、根性練習などでも、目標を持たせやすい。これは指導者の指導の放棄ではないのか。
上位まで残れば、いや優勝をすれば、全国一になれば、学校や所属企業の知名度が上がり、それが学校価値、企業価値を押し上げるという錯覚がある。錯覚なのだが、社会そのものが歪んでいるならば、錯覚ではなく、本当にそれだけで価値が上がってしまう。
学生スポーツは人間教育の一環として行うものであるはずである。多様な価値観を持ち、豊かな心や教養を持って、価値ある人生を送る、そのための教育であらねばならない。画一的な考えや方針を植え付けてはいけない。
しかし、今でも体育会などの多くは、ハラスメントの土壌を作っている。勝利至上主義は上意下達型の人間関係を作り、イエスマンを大量製造してしまった。そしてイエスマンの上でふんぞりかえる権威の亡者を作り上げてしまった。
もしもそれは教育だとしたら、負け組、勝ち組を作り出し、負ければ人生終わりで2度とやり直しのできない、硬直的な日本社会を作り出したという教育ではないのか。理不尽な社会の中で理不尽な人生を強いられる。その様な歪な社会では皮肉にもその様な教育が必要なのかもしれない。
つい筆が滑ってしまった、勝利至上主義に話を戻そう。
勝利を目指すことが悪いことではない。そのために力を出し切ることこそ素晴らしい。お互い出し切ることに価値があるので、その後の勝負の結果にはあまり価値はない。
先日の流経と筑波のゲームはその様なことを思いしらされた。
選手はお互いに持っているものを全てを出し切った。体を張った、体力だけでなく、知恵や、閃きなど、持てるものを総動員して戦った。筑波のバックスのステップ、つなぎやフォローは70年代初頭のウェールズの様に見えた。前につめるディフェンスの脚は最後まで緩まなかった。流経も裏をつくショートパントで応戦する。激しいタックルが連発する。お互いに理に適った攻撃であり防御である。ラインアウトも工夫されている、ここぞのスクラムでは何度も主導権が入れ替わった。さらにゴール前の長時間の攻防には誰もが手に汗を握った。
80分を過ぎても勝ちに拘った、いや、単なる「勝ち」ではない。自分たちのラグビーを表現することに拘った。P Gを狙わずトライを取りたかった。インゴールからでもボールをつなぎ、100m以上向こうのゴールラインに少しでも近づきたかった。お互いに引き分けは嫌だった。このまま終わらせたくなかった。
しかし、結果は引き分けに終わった。
抽選の結果上位に進出したのは流経。でもその上位進出の価値などちっぽけなものであった。TVの画面に大写しにされた、いかにも権威主義的に書かれた「出場権あり」の文字が、白々しくわざとらしく見えた。事務的に見えた。
お互いに12月の秩父宮のグランド上で表現したラグビーそのものこそに、ものすごく大きな価値があったのだ。ラグビーの高みに達していた。
それをお互いのキャプテンだけでなく全員が感じ取っていたと思える。それを感じ取れた者こそラグビーの勝利者にふさわしい。