LEGOでノートルダム大聖堂を作ったのを気かけに、歴史における場所としてのノートルダム大聖堂を振り返ってみたいと思います。
今はフランス、パリを代表するアイコンでありましますが、実はノートルダム大聖堂はあまり、フランスの歴史では重要な場所ではありません。王の戴冠式は代々シャンパーニュ地方のランスの大聖堂で取り行われ、葬儀と埋葬はサンドニにある大聖堂で行われます。
でも大々的なイベントの多くは、このノートルダム大聖堂とその前の広場で行われました。
目次
その1 フィリップ4世による初めての三部会開催(1302年)
フィリップ4世は度重なる十字軍遠征で疲弊した財政再建のための課税を廻り、教皇の絶対主義者ボニファテウス8世と対立します。フィリプ4世は民衆の支持を取り付けようと、3身分(聖職者代表、貴族代償、平民代表)をここパリのノートルダム大聖堂に集めて、演説を打ちます。「教皇か王かを問う!!」これが功をそうし、民衆はプリップ4世の支持にまわります。これが「三部会」の始まりです。
これに対し、教皇ボニファテウス8世は「ウナムサンクタム」を発令し、フィリップ4世を波紋すると言い出します。翌年、民衆を支持を取り付け怖いものがなくなったフィリップ4世の指示によりノガレとコロンナは「アナーニ事件」を起こし、ボニファテイウス8世は憤死します。その後は「アビニヨン捕囚」となります。王の権威に対し、教皇の地位が劣った時代です。
三部会はその後課税のたびにたびたび開催されましたが、1614年を最後におよそ170年間ブルボン朝の絶対王政の間は開かれませんでした。再開したのはフランス革命の時です。この時はベルサイユ宮殿でした。この時の三部会がフランス革命のきっかけになります
その2 ナバル王アンリとマルゴの結婚式(1572年)
ユグノー戦争の真っ只中、当時のナバル王アンリ(後のアンリ4世、粗野で開けっ広げなガスコン)とシャルル王の妹マルゴ(妖艶で驚きの男性遍歴の持ち主マルグリッド)の政略結婚式がここノートルダム大聖堂とその前の広場で行われました。これを決めたのが双方の母君、ジャンヌダルブレと、カトリーヌドメディチです。双方とも曲者です。
ユグノーのアンリと、カソリックのマルゴの結婚式ですから、式次第も複雑になりました。花嫁が誓いを立てる間、花婿外の広場で待ってるというなんとも奇妙な形です。しかも最後まで結婚に乗り気でなくなかなか誓いをたてられないマルゴを兄のシャルルが頭を無理やり下げさせて、それが誓になったというおまけ付きです。
その後はカトリーヌ自慢のお色気軍団「遊撃騎兵隊」の演舞や何やらでノートルダムの前の広場で大宴会がとり行われました。
実は、結婚式の数週間前、ジャンヌダルブレはパリで死亡(カトリーヌによる毒殺ではないかとの説あり)しています。
さらに結婚式直後には「コリニー提督の暗殺未遂事件」、さらには「サンバルテルミの大虐殺」に繋がります。
その3「理世の祭典」開催(1793年)
フランス革命時にここで「理性の祭典」なる大イベントが行われました。
フランス革命の中盤、ロベスピエールのジャコバン政権になると、過去の宗教や宗教的なものは「反革命的」と考えられ、一切否定されます。例えば西暦グレゴリオス歴はキリスト教的であると廃止され、新たに革命暦として1週間は10日間、月の名前も7月がテルミドール(熱の月)、11月がブリュメール(霧の月)など自然からとられます。各地の修道院は次々に破壊されます。ノートルダム大聖堂も排除の対象になったのですが、多額の革命費用を代替わりするという条件で破壊を免れました。ジャコバンの中でも最も急進的なエベールは、宗教がないとしても民衆は何かを拝むべきものが必要と考え、それは「理性」であるとします。その「理性」を全国に浸透させるために1793年11月「理性の祭典」という大イベントになりました。人が中心でした。女神に運したオペラ女優が登場して、理性と自由を祝福するというものです。今となればなんとも滑稽ですが当時のエベール達は大真面目でした。
穏健的なダントンはもとより、ロベスピエールも行き過ぎたと感じてエベールも粛清の対象になりギロチンとなります。
その4 ナポレオンの戴冠式 (1804年)
ナポレオンの皇帝としての戴冠式がここノートルダム大聖堂で行われました。
ナポレオンは幼い頃からの皇帝になるという夢をついに果たしました。
ローマから教皇のピウス7世を呼び出して、王冠を授かるという段取りでした。
しかし、段取りを忘れた待ちきれないナポレオンは自ら王冠を手に取って被ってしまいます。さらには隣にいた年上の妻ジョセフィーヌにかぶせてしまします。後から「私は民衆によって選ばれただから自ら王冠をかぶるのだ」と言いますが、わざわざローマから遥々来たピウス7世は、手持ち無沙汰で全く何をしに来たのかわかりません。
逆に呼んでもこなかったのが、コルシカ島のナポレオンの母です
「おんめえ、田舎貴族が皇帝なんかになるもんでねえ、調子に乗るもんじゃねえ、わしゃそんなとこにはいかねえかんな」と言って出席しませんでした。立派な母です。
マザコンであるナポレオンは絶対に母に来てもらいたかったので、のちに書かせたこの絵にしっかり母の姿を描いてもらっています。
その5 ヴィクトルユゴーによるノートルダム再評価運動
フランス革命以降、ノートルダム大聖堂は放置されて荒れ果てはままでした。それを再評価して復活させたのはヴィクトルユゴーです。ヴィクトルユゴーの「ノートルダムドパリ」が1831年に出版されます。のちの作品レミゼラブルで描かれる「7月革命」が起こった翌年にあたります。
「筆者は壁に描かれた「宿命」という文字を発見した」
こんな意味深な書き出しから始まりますが、なかなか本題に入りません。200ページにも渡り、パリの様子やノートルダム広場の前で行われた「らんちき祭り」の描写が続きます。(これをディズニーアニメやミュージカルでは、数分の「トプシー・ターヴィー」の一曲のモブで片付けてしまっています。)
舞台となる時代は1482年、時代は(偏在する蜘蛛)ルイ11世統治の時代です。100年戦争後も対立していたブルゴーニュのフランスによる征服やピカルディ、アキテーヌなど領地を次々に取り戻していました。
その当時のパリの様子が分かります。「らんちき祭り」の上下逆さま、表と裏、闇と光はまさにそのままだったそうです。ユゴーは過去のパリの状況や活気あふれる民衆を描き出し、革命革命で荒廃した現状19世紀のパリをなんとかしたかったものと思います。
実際のストーリーについてはここでは割愛しますが、このことだけは指摘しておきたいと思います。その後の訳本やアニメ、映画やドラマなどでは、いろいろのな場面が、割愛されたり、新しい解釈が施されています。事実、エンディングはほとんど違っています。鹿島茂氏によれば、神話的小説であり、開かれた小説で、自由に解釈して変更することが可能な構造を持っているということです。
この小説が大ベストセラーになり、ノートルダム大聖堂は元のように戻りました。