フラワーズオブスコットランドのエドワード2世について

1,はじめに

ラグビー通なら、スコットランドの国歌である「フラワーズオブコットランド」はおなじみである。エディンバラのマレーフィールドでは、ラグビーのテストマッチの試合前に屋根の上のバクパイプの演奏に合わせて、感動的な5万の大合唱となる。

その「フラワーズオブスコットランド」の歌詞に

And stood against him, 
Proud Edward's army, 
And sent him homeward 
Tae think again.

彼(エドワード)への奮起
暴君エドワードの軍は退却し、諦めた

といくだりがある。

このエドワードがイングランドの王、エドワード2世なのである。エドワード2世はイングランドでは王の中でダントツに人気がない。ダメさでは失地王ジョンとためでワーストを争う無能な王として歴史に名を刻む。

一方、ウェールズにとっても象徴的な王様でもある。なぜなら、今でも王位継承第一位の王子を「プリンス・オブ・ウェールズ」ということになる伝統称号の第一号が、このエドワード2世でもあるのだ。

 

彼は統治能力に乏しく、妻や諸侯からは疎んじられ、生存中に王権が剥奪された唯一の王となった。

そして、エドワード2世の最後は壮絶、且つ情けないものである。その墓は絢爛豪華な廟で、グロスターの大聖堂にある。

グロスターといえば、2015年南アに勝ったジャパンが中三日でスコットランドに破れた地である。当時相手のスコットランドのキャプテンのレイドローはそのグロスターのクラブに所属していた、

このように、ウェールズやスコットランドに深く関係している、エドワード2世とはどんな人物だったのか再確認しておきたい。

2,生まれと幼少期 プリンスオブウェールズ

父は偉大なる王、エドワード1世であり、エドワード1世は若いころからスコットランドを攻める一方、ウェールズにも兵をだし、完全にその手中に治めた。エドワード1世は聡明だった。スコットランドの抗争が激しい中、ウェールズが反撃の機運を起こさせないためにもウェールズには懐柔策をとったのだ。その一つとして身重の王妃をウェールズ南部カーナヴォン城に移送させ、そこでお産をさせた。誕生したのが、のちのエドワード2世となる男子なのだ。実はウェールズ人には一度は途絶えた「プリンスオブウェールズ」の称号の復活にあたって、ウェールズ人は3つの条件を出していた。

1,ウェールズで生まれた者であること
2,英語を話さないこと
3,罪を犯したことのないもの

わざわざ、身重の王妃をカーナボン城まで移送させお産させたのはこのためであり、ウェールズで生まれたばかりで言葉を話さず、罪も汚れもない赤子だった我が子エドワードはこの条件にあてはまり、生まれて次の日に「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を与えられたのだった(実はもっと遅くなってからという説のほうが今は有力)。

まさに嘘のような「とんち」や「なぞなぞ」のようであるが、こんな笑えるような懐柔策はうまくいき、一本取られたほうのウェールズの諸侯も温和であり、イングランドの一部になったウェールズからはその後も大きな氾濫は起こっていない。したがって、ユニオンジャックにはいまでもレッドドラゴンは描かれていない。

「プリンスオプウェールズ」のエドワード王太子(後のエドワード2世)は、内気でおとなしい子であった。そのため、友達相手として、同い年の騎士階級のギャピンストン君があてがわれた。これがその後の大失敗の第一歩となるのであった。

この二人。実は成長するにしたがって、幼馴染という枠をこえて、相思相愛のボーイズラブの肉体関係の仲になってしいく。しかもその寵愛ぶりは公私混同も甚だしいものになるのだった。

 

3,スコットランド撤退

父王エドワード1世はイングランド史上に残る名君として知られている。スコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスも退け、一度はスコットランドを平定し、プリテン島の統一を実現した。しかし、スコットランドは今度はロバート2世が反撃を開始した。

父エドワード1世はこの何度目かの平定の戦争に成長したエドワード君を連れて応戦にあたった。しかし、当のエドワード君は戦う気力が全く無く、従軍先のテントの中でギャピンストン君と着飾って、舞踏会のような遊びをする毎日だ。怒った父エドワード1世はギャブンストンをアイルランドに追放処分とした。

そうこうする間に父エドワード1世が従軍先で病死してしまう。死の直前エドワード君に3つの遺言を残した。

1、ギャビンストンを決して呼び戻すな
2,スコットランドとの戦いを続けろ
3,その際、私の亡骸を御旗として先頭に配置せよ

これこそ偉大なるエドワード1世の死に際の重いことばであるが、息子のエドワード君は、そのすべてをあっさりとやぶってしまう。

スコットランドからすぐにロンドン引き返し、父の亡骸はウエストミンスターに埋葬、アイルランドのガピンストンもまっさきに呼び戻す。

しかしそんな中、スコットランドの反乱は勢いづいてしまう。エドワード二世は乗り気でない平定にスコットランドにもどるが、「バノックバーンの戦い(1314)」において、ロバートブルース軍に返り討ちになってしまう。

 

 

 

 

 

 

このときの歌が「フラワーズオブスコットランド」である。
「バノックバーン」というカクテルは、ウォッカのかわりにスコッチを使ったカクテルである。

pastel100 / Pixabay

3,即位とスクーンの石

 

エドワード二世の即位の際に話をもどす。

偉大なる父エドワード1世がスコットランドから戦利品として持ち帰ったのが、「スクーンの石」である。スクーンの石は、歴代スコットランドの王が戴冠式を行うための玉座であった。これをイングランドに奪われることはスコットランドにとっては屈辱の象徴である。

エドワード皇太子は「スクーンの石」をウエストミンスターの玉座に組み込んで戴冠式を行った。エドワード二世の誕生である。スコットランドに対する悪ふざけである。以降イングランド王がはスクーンの石が組み込まれている玉座で戴冠式を行い、その玉座に座って王権をふるうことになるのだが、その先駆けをなったのが、このエドワード二世なのだ。

エドワード二世がスコットランドにとって憎悪の対象なのはこういった事情もある。

4,悲惨な性癖と結婚生活

エドワード二世は今で言う「バイセクシャル」であった。バイセクシャルというか、だれでもなんでもOKという節操のない性癖であった。だから男色家なながら、結婚をしてしっかり世継ぎも造っている。妻となったのは後にフランス王シャルル四性の妹イザベラである。

しかし、イザベラとのの結婚生活は悲惨だった。エドワードにとってNO1ははやり幼馴染のギャピンストンで、イザベラ所有の宝飾品を奪い取ってギャピンストンへの贈り物とするような酷い扱いぶりであった。16歳の王妃イザベラにとっては、屈辱的な毎日だったことだろう。しかもエドワード二世はギャビンストンに爵位を与えたり、摂政に登用したりとやりたい放題。

ついにギャビンストンは王妃と反対派の諸侯に取られられ処刑になる。今後こそ回心するかと思いきや、今度は替りにディスペンサー親子を寵愛するようになる。イザベラのほうといえば、ディスペンサーが捉え得てきたマーチ泊モーティマーに一目惚れし、不倫関係になってしまう。
エドワード二世の愚行はエスカレートしていく。

業を似やしたイザベラは、幼少の息子とともに兄のいるボルドーに里帰りし、愛人モーティマーや反対派諸侯と合流。兵をかき集め海峡を超えてロンドンに進軍する。

5,壮絶で情けない最後

これにはイングランドの諸侯や市民は大歓迎で、あっという間に決着が着き、ディスペンサー親子は処刑、エドワード二世は配位の上、バークレー城に幽閉される。

 

 

 

 

これでもイザベルの復讐心は収まらず、「もっとも残虐な方法で殺ってくてれ」と部下に命じる。

部下の殺った方法というのが、「真っ赤に焼け鉄の火箸を肛門から突き刺して内蔵を焼き尽くす」というものだった。この方法では外傷をのこさず証拠が分からなく、しばらくは病死ということで片付けられた。

 

 

 

 

 

 

しかも殺害のカムフラジューのために、壮大な葬儀が行われた、葬儀の間中、妻のイザベラは嘆き悲しむ演技を押し通した。そして遺体は絢爛豪華な廟が建造されグロスター大聖堂に安置されている。

 

 

 

 

 

 

6,後日談

16歳に成長した息子のエドワード三世は、所用でフランスを訪問の際、実母のモーティマーとの不倫や、父の死にザマの真実を初めて知ることになり、まさに腰を抜かすほどの大ショックを受けることになる。大急ぎでロンドンに引き返して悩む日々をおくり、1年後ついにモーティマーを捉えて処刑、実母のイザベルを幽閉する。イザベルは幽閉生活の末病死している。

このエドワード三世はフランス王位を主張し、フランスとの100年にわたる戦争いわゆる「百年戦争」の引き金を引き、その後の30年に渡る「薔薇戦争」の種を撒くことになってしまうのだ。

 

 

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