プレーの精度を乱すもの

 

勝利をめざした真剣なラグビーであればあるほど、そこに人間性が現れてくる。ぶつかり合い、跳ね返され、地面に叩きつけられ、また起き上がる。そんな切り返しの中で、常に平常心で冷静を保てる強い心の人間などまず存在しない。しかし、そこで平常心を失えば、プレーはブレる。キックは曲がるし、パスは乱れる。状況の認知機能は鈍り、判断は遅れ、そして過ちをおかす。

 

インプレーの中でラグビーほど自由なプレーの選択肢があるスポーツは他にない。例えばボールを受けた瞬間、次の行動は「パス」「キック」「ラン」「当たる」「かわす」。しかも、「誰にどんなパスをするのか」、「キックはハイパンかグラバーか」「どこに蹴るのか、陣地なのかコンテストなのか、キックパスなのか」、「どのコースを走るのか」、それらも一瞬の内に選択して実行しなければならない。そこに寸分の迷いがうかがわれれば、次の刹那、強烈なタックルの一撃を食らうことになるのは間違いがない。
同じアタックであったにしても、ボールを持たないとところでもどう動くのかの選択肢も多い。「決め事に従ってデゴイに入るのか」「どの位置と角度でフォローに走るのか」「ブレイクダウンのときどうサポートに入るのか」それとも「次のアタックに備えて最適なポジション位置に戻るのか」などなど。
これはディフェンスの時も全く同様である。

(ほぼ同じ大きさのピッチでおこなうサッカーは手が使えないので、それだけで選択肢の幅は狭まる。そしてボー回しの時間は余裕があり冷静に戻れる。きつい肉体的衝撃はすくない。相撲や柔道など格闘技の相手は一人しかしないし、パスケなどはキックはない、)

ラグビーのゲームの最中は平常心や理性を乱す要因にあふれている。

微妙なプレーが反則と判断されれば、レフリーに素直に従う気をそがれる。ノックオンなどの簡単なミスを引ずってしまえば次のプレーでは自然と手が縮こまって、ミスを繰り返すことになる。しかも楕円球はきまって不規則な跳ね返りや転がりを見せる。上手く転がることもあれば、次の瞬間、するり手元をすり抜けている。どうして平常心でいられようか?

環境も影響する。
暑さは体力を奪い、集中力を阻害する。汗によってボールは滑る。風はパスやキックの軌道を乱す。太陽は舞い上がって落ちてくるボールの位置を幻惑し、雨はボールを濡らし、ピッチはぬかるみ、スパイクは踏ん張れない。

時間との戦いもある。
ゲーム時間は本来均等なはずだ。しかし、同じ残り時間でも劣勢であったら時計の針の進みは早いと感じ、僅差で勝利が間近なら時間の進みは遅く感じる。そして、体力的に限界ならば、終わるまでの時間は永遠にも感じてしまうだろう。
そこに、60秒ルール30秒ルールという新たなルールが加わった。これはキッカーにとっては新たな時間との戦いである。平常心を必要とするプレースキックにとっては難敵の出現である。

以上ラグビーにおける平常心を乱すものを羅列してきたが、最も心がかき乱されるものは何なのか、それは相手である。

生身の人間と人間がぶち当たる、そこには肉体がある。衝撃や痛みがある。消耗も在る。肉体は嘘をつかない。肉体が受けた感覚は理性面の壁を砕き、感情面を直接刺激する。ぶつかった瞬間に相手の強さがどんなものかも感覚的で理解する。その瞬間、それは恐怖心と同時に対抗心も刺激する。そして間近には相手の「顔」がある。そして「態度」や「表情」もある。気に触るような言動には苛立ちを隠せない。そこに反則紛いのグレーなプレーが無いとは言えない。「なにくそ」「生意気な」「みてろよ」となってしまうのだ。

そうなると冷静な試合運びができなくなる。それがプレーの選択ミスだったり、ハンドリングミスだったり、反則を繰り返したりということにつながってしまうのだ。

昨日のフィジーUSA戦のFIJIがフィジカルに走ってしまったのも、自らハンドリングエラーの蟻地獄にハマったのもそうれだった。これまでのFIJIとUSAはなぜか僅差のゲームになることが多い。学生ラグビーなどでも今季のチームカラーを出せずに、相手のジャージに刺激され、伝統のプレーに先祖帰りしてしまうこともよくある。

 

 

しかし、ラグビーが一旦始まり、肉体同士が組み合う瞬間に忘れさられるもの一つだけある。

それは職場や家庭の問題や人間関係などのストレスである。キックオフから、ノーサイドの瞬間まで、いや、それからアフターでの最後のビールを飲み干すまで、はたまた、酔い潰れて次の朝になるまで。其の時間はさまざまな日常から開放された時間となる。それはラグビーをプレーする者だけに許された特別なご褒美である。

そして彼らには気力に満ち溢れた平常の1週間がまた始まるのだ。

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