ゴルフだけでなく、テニスや野球やサッカーなど、プロの場があってそこに注目される世界の場もある競技がなぜオリンピックに必要なのでしょうか。答えは明らかで、競技団体の利権やメディアの視聴率、用品メーカーの宣伝などのためでしょう。
それだけならそれで終わりですが、オリンピックのゴルフ競技からは、プロとアマとはどうあるべきかなど考えてしまうことにもなりました。
プロとアマは対義語のようで違います。
語源を辿るとプロフェッショナルとは、元々キリスト教の宗教用語PROFESで、神に身を捧げるという行為をする人のことです。そして、アマチュアとは、元々の語源がそのことを愛する人=愛好家の意味でありました。19世紀後半から20世紀にかけて、大英帝国やクーベルタンによって、近代スポーツが発展したことで単に愛好家として意味だったはずの、アマチュアにアマチュアリズムという新しい概念が形成されていったのです。(その中に階級社会で上流階級側の勝手な論理も含まれていました)
その後今日までの資本主義経済は、なんでも商品化して資本の増殖の元にしてしまいます。特に84年のロス大会からはオリンピックも完全に「商業主義」に転換しました。スポーツのプロ化、オープン化も後戻りできませんでした。
そんな中、ラグビーの大西鐵之介は、アマチュアリズムに関して「スポーツの試合も突き詰めれば生死を分ける真剣勝負である。しかしそれでも勝負がついた時に純粋に「お見事!」の一言で満足して終われるのがアマチュアリズムであり、そこに少しでもカネのような借り物が絡むと素直に勝負そのものを楽しめなくなる」と言っています。
まさにスポーツを、勝負を愛する人の発言だなど思います。
かと言って、選手等の試合の勝利への動機は人それぞれ様々です。カネ以外にも様々あります。
名誉欲や、支配欲、承認欲求、自尊心、ひがみ根性(ルサンチマン)、抑圧の発散、優越感を満足させるため、民族のため、国のため、復讐心、家族のため、感謝のため、愛校心のため、負けた悔しさ、など様々です。ポジティブな動機だけでなく、ネガティブに思えるものもあります。純粋なものもあれば屈折したものもあります。
これらも、カネと同じ様に勝負の純粋さをなんらかの形で損ねるのではないかと思います。本来は「勝ちたい」という純粋な闘争心なはずです。勝つのは相手だけなく、自分自身に勝つことも含みます。様々な誘惑に打ち勝つことです。そこには「闘争の倫理」も含まれます。
一方で、どんな動機であっても本人以外の「他者」からはそれを非難する事はできません。お互いに「他者」としての存在や立場は理解しようとしなければなりません。
実は、試合が真剣勝負なら動機など関係ありません。試合中の選手達はそんなことは全て忘れての目の前の相手と自分に向き合うことになります。どんなに金を積まれても、本物の真剣勝負の前ではなんの関係もありません。そんな試合が、素晴らしいゲームなのではないかと思います。
スポーツの真の愛好者(競技者、ファン、支援者など)はそんなゲームに感動します。
スポーツを勝負を手段としてでなく目的として愛します。
(なにかカントの哲学みたいですが)
芸術家のパトロン、相撲のタニマチなどは、完全に愛好家です。愛するもののために金に糸目をつけません。しかし危ういのはその金で本来の芸術性、本来の純粋な競技欲がスポイルされるケースもあります。
今のスポンサーやメディアは元からスポーツを愛してなんかいません。多くの協会団体ですら怪しいです。今のスポンサー企業は金儲けのプロなのです。メディアはどうでしょうか、ジャーナリズムのプロでしょうか、ただ単に面白おかしくして、または感動の押し売りをして、視聴率、閲覧数を競いあうことだけのプロなのではないでしょうか?本来の純粋な勝負をスポイルしているのではないでしょうか。
スポーツを愛するものからいえば、スポーツを単なる道具に使われているだけで悲しいです。スポーツの政治利用などはもってのほかです。「パンとサーカス」「スポーツウォシング」として世界の問題や現実から目を逸らさせるように、都合の良いように使われてはいないでしょうか。
貧困や、戦争、差別などで人間としての最低の生活さえできていない地域や人々が多くいます。「衣食足りて礼節を知る。」というように、スポーツや娯楽などの余裕などあり得ません。華やかなオリンピックの狂乱歓喜でそれらの存在を忘れてはなりません。
一方、逆説的にはなりますが、十分に金もあり、名誉もあり、地位もあるなら、それが勝負の純粋さを損なわせるものではなくなり、目の前の勝負だけに真剣に没入することができることも事実です。(例えば大谷がカネのためにプレーしているとは考えられません)。
オリンピックのゴルフ競技の競技者には直接的にカネは絡んではいないはずです(裏ではスポンサーとの関係はあるかもですが)。その事は参加者に観客にファンに勝負を普段のメジャー大会とは違う純粋なものとして、別なものとしての喜びや感動をもたらすものになったはずです。
プロたるアマチュアとしてです。
それは愛する競技に、愛する勝負に身を捧げるという本体の意味としてです。