スポーツと政治、スポーツと金 その2 古代中世編

古代ギリシアでのオリンピックと休戦の関係(エケケイリア)は、既に第一回にのべだ。

ここでは、まず、なぜ古代ギリシアの市民がスポーツをたのしめたかということを考える。

それは「暇だったから」ということだ。暇を弄ぶので気晴らしに体を動かしたのである。その裏には、奴隷制度があった。日常生活の家事育児や仕事などなにもしなくてよかった。古代ギリシアでプラトン、アリストテレスなど「哲学」が花開いたのも、奴隷制に基づく「暇」が十分にあったということに関係している。
哲学者のプラトンの名前は、レスリングの強い人という意味である。

スポーツの語源がであったことの裏には、階級社会、奴隷制というものがあったのである。(しかし、一般の奴隷制のイメージではなく奴隷と知ってもその暮らしは結構なものであったようである)

この「暇」というのが19世紀に上流社会級の中で近代スポーツが発展し、アマチュアリズムが起こったかと言うことにも関係してくる。

帝政ローマでの政治手法を表す言葉として「パンとサーカス」というものがあった。パンは文字通り食料のことであり、サーカスは見世物のことである。市民が十分に食料がえられ、巨大円形競技場などでのスペクタクルで残酷な見世物という娯楽があれば、どんな悪政であっても民衆の不満は出ずに暴動など未然にふせげた。テルマエ・ロマエのように娯楽施設としての公衆浴場の建設なども、人気取りの道具として活用された。
つまり、このときから既に、スポーツが政治の人気取り、人気回復の手段として政治に活用されているのである。つまり、最初から「スポーツウォッシング」は組み込まれていたのである。

動物同士もしくは、動物と人間が闘う見世物は、いわゆる闘牛や闘犬、熊いじめなどのブラッド・スポーツして、更にはドッグレースなどの賭博の対象として、近代まで盛んに行われ続けている。

中世になると貴族のなかでは様々な余興が行われる。乗馬や馬上試合、テニスの原型などはもちろん、鹿がり、猪かりなども重要なスポーツであった。やはり暇だったからである。

最もライオン狩り、猪がりなどは、メソポタミアのアッシリア時代、ササン朝ペルシアなどでも行われたいた事が、レリーフなのに刻まれて伝えられている。

6人の妻で有名なイングランドのヘンリー8世と、敵対するフランス国王のフィリップ2生がレスリングをしたことが有る。(ヘンリー8世もガッチリした体格だが、2mを超える身長のフィリップ2世が勝ったとの記録がある)

それ以前のフランス、イングランドの100年戦争の間に、ナントに近いブルターニュの森で戦争中に双方の代表者による「30人対30人の戦い」が行われた。これはもうゲーム感覚である。

そして、まさに当時の国王達にとっては、戦争そのものがスポーツでさえあったのだ。戦争に負けても王自信は捕虜なるだけで良かった。保釈金を払えば国王の身分のまま帰ってこられた。捕虜になっても敵地では贅沢な待遇をうけ、毎日飲めや歌え、そして夜のお世話付き、の贅沢三昧をして過ごせた。もちろん田畑はあらされ、多量の戦死者をだしたが、そんなことは意にも介していなかった。そもそも兵隊は、金で雇った傭兵であり、兵隊が何人死のうが生きようが問題はなかった。逆に、あらっぽい傭兵の生き残ったものが多くなると治安が悪くなるので、人減らしのためにも戦争は必要だった。

一方民衆の間、とくに南フランスからイングランド北部、スコットランドなどケルトの地で「原始フットボール」が盛んになる。村と村、或いは町を二分しての300人を超えるプレーヤーが一つのボールを巡って、対決する。殴る蹴る抑え込むなどははまだいいところで、しばしば死人もでるような激しいものだ。いまでも、フィレンツエやジョージア、イギリスのでなどではでは形を変えながらも伝統的な形で残っている。
何故そんな荒っぽい行事が、盛んに行われたなったかというと、毎日の苦しい労働や為政者の重税に苦しむ住民の年に一度(灰の火曜日)の憂さ晴らしとして機能したからである。

そしてその時、住民たちが爆発するパワーを見せるのは、為政者への恣意行為でもあった。国王や為政者は何度もフットボール禁止令をだしたが、都度破られた。締めた手綱を緩めるのも為政者にとってはやはり、「パンとサーカス」の一貫だったのだ。

パンとサーカスの中には、「闘牛」、「熊いじめ」などもあらっぽい見世物もあった。

日本の平安時代は大きな戦争はなかった。だから、「暇」なので貴族たちは屋内外で、遊びをおこなった。和歌の会や貝合せすごろくなど屋内のボードーム的な娯楽=マインドスポーツ。屋外では、蹴鞠、打毬(ポロの原型)、射的などは盛んである。
それらは、出世のために名前を売る格好の場所だった。大河ドラマ「光る君」へに有るように、官職を得るために知性や感性を売り込む必要があったのである。
遊びなのだが、遊び以上に真剣に取り組まれている

鎌倉時代の武士の世になると、日本でも大規模な「鷹狩」などが行われるようになる。「犬追うもの」なども戦の予行演習的におこなうスポーツそのものであった。「相撲」もその一環として行われたが、見物する勧進=興業としての形が出来上がった。有望な力士を召抱えるというタニマチも始まる。このことから相撲はプロスポーツの形があったのである。

庶民の間でも、相撲、徒競走、石投げ、竹馬、首ひき、腕相撲なども楽しまれている。毬杖(ギッチョウ)という木の棒でボールを撃ち合って相手のゴールに入れる競技も盛んに行われた。

参考文献
NHKラジオ カルチャーラジオ 日本スポーツ文化史 谷釜尋徳

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