RWC2023フランスへの準備 南米各国の独立の歴史 (あと72日)

1、出場各国の理解のために

前回はチリの初出場の話を紹介した。南米のチームが3チーム出場するのはRWC史上初めてのことになる(アルゼンチン、ウルグアイ、チリ)。しかも、アルゼンチンとチリは日本と同じ「プールD」です。このことはアルゼンチンとチリという南米のチーム同士がフランスのRWCで直接対決することとなる。このアルゼンチンとチリの対決は、ナントで9月30日現地時間15時キックオフ。これは大国で常連国であるアルゼンチンに初出場のチリが挑む形になり、ナントの街はきっとスペイン語が飛び交い、盛り上がることででしょう。

今日は、この三カ国を中心に植民地支配時代、そしてそこから独立する過程を基礎知識として簡単に整理しておきたい。日本アルゼンチンチリと対戦しますので、事前知識として知っておけば、観戦もより楽しくなるに違いない。

さらに、その歴史の流れの中に、大航海時代にスペインと競ったのが今回久々出場のポルトガル。植民地時代は開催地のナントが三角貿易の拠点となりフランスの絶対王政の資金源になります。各国の独立運動のきっかけにはフランス革命やナポレオン戦争が大きく影響しました。

2、大航海時代とトルデシリアス条約

1492年ヨーロッパではイベリア半島からイスラーム勢力を追い出すことに成功(レコンキスタ)する。時を同じくして、スペインの支援を受けたジェノバ人コロンブスが新大陸を発見し、ポルトガルのバスコダガマは東回りの航路を発見、以降はアメリカ大陸はスペインとポルトガルの植民地化の餌食になった。両国の争いはトルデシリアス条約(1494年)によって子午線が引かれ、東はポルトガル、西はスペインの取り分と勝手に決めために、ブラジルに当たる領域はポルトガル(いまでもポルトガル語が公用語)その他はスペインの植民地になっていく。したがって、今回RWCに出場の南アメリカ3国は全てスペインの植民地であった。(ちなみに今回久々にそのポルトガル本国も出場を決めているので楽しみ)

3、独立運動の先陣はハイチ

南米の植民地の独立は、フランス革命やナポレオンが大いに関係する。ナポレオンのスペイン侵攻により、スペイン王国がほぼ崩壊したからである。

しかしその前、南米で一番早く独立を果たしたのはハイチである。独立したのはスペインでなくフランスからである。ハイチはスペインの植民地であったが、ルイ14世ファルツ戦争の結果、フランスに移譲されてフランスの統治下にあった。

ハイチの奴隷制をもとにした砂糖を巡る三角貿易(武器−砂糖−奴隷)は当時の貴重なフランスの財源でもあった。そのとき栄華を極めたフランスの都市が今回WCでチリ−アルゼンチン戦および日本ーアルゼンチン戦が行わるナントである。当時は奴隷市場もあり、巨大な砂糖工場や倉庫が軒を並べていた。倉庫や工場はいまでも残っている。今でもフランスを代表するLUというビスケットはこの砂糖工場で創らている。

 

 

 

 

(ナントのお土産には最適です)

 

 

アメリカで独立戦争が起きると、南米各地でも独立の機運がたかまる。そしてフランス革命が起きると、ハイチでは裕福な支配層は、黒人達を扇動しフランス領事に攻撃をしかけた。この中の黒人の有力者が後に黒いジャバンと呼ばれるトゥーサンルベルチュールであった。フランス革命がその後ジャコバン独裁に変貌すると、フランス本国のジャコバン政府は、奴隷解放を発表(世界で初めての奴隷解放令)する。これで自由を勝ち得たルベルチュールはジャコバンに鞍替えし、干渉してきたイングランド軍を追い払い主導権をにぎる。(そこころのナントでも反革命一掃のため「共和党の結婚」というジャコバンによる大虐殺が行われていた。)

しかし今度はテルミドールのクーデターでジャコバンが倒されると、フランス総裁政府は弾圧に転じた。総裁政府のナポレオンは奴隷制を復活させる。トゥーサンルベルチュールも捕まり獄中死する。しかし、残されたメンバーが戦い続け、ナポレオンが派遣した大軍を破り(軍隊の中に黄熱病がまん延)、1803年独立を勝ち得、今日まで独立を守っている。(大阪なおみの母親はハイチ人)

 

 

 

 

 

 

 

(トゥーサンアルヴェチュール黒いジャコバン 今での配置の紙幣の肖像画になっている。そしてラテン・ロックの巨峰、サンタナの3枚目、サンタナ3(若きニール・ショーンのギターも活躍)のB面の「聖典」という曲はトゥーサンアルヴェチュールに捧げた曲であり、原題もそもまま、トゥーサンアルヴェチュールです。)

 

 

 

 

 

 

 

4、ブラジルと南米北部の独立

1809年にナポレオン軍はスペインに侵攻するが、ナポレオンのスペイン侵攻は泥沼化する。これでスペインの統治はガタガタになり、南米各地の植民地が独立することになる。

まず、1809年ポルトガルの王室はそろってリオデジャネイロに亡命する。このことで、本国ポルトガルと同君連合としてのブラジル王国建国につなががる。ブラジル王国では1822年に自由主義革命が起き、ポルトガルを追い出し、ブラジル帝国として独立となる。

南米の北部では、クリーリョ(現地生まれの白人)のシモン・ボリバルが主導し
ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ボリビアが独立する。

4、アルゼンチン独立とチリの独立の関係

現在のアルゼンチンは、スペインの副王国の一部であった。1810年5月11日にブエノスアイレスで「5月革命」が勃発、独立宣言が出される。このときのシンボルが「5月の太陽」である。これは長い独立戦争の始まりであった。

 

 

 

 

 

 

 

5月11日にはアルゼンチンの国歌も決められた。5月11日は国歌の日となり今も国民の祝日である。

前奏は長いのでなかなか歌になりません。スタジアムでは最後の部分だけでもいいっしょに歌いましょう。

 

ペルーとチリももう一方のスペインの副王国であった。
ここで活躍するのが、サンマルティンである。彼は、アルゼンチンの独立運動の中で、それを邪魔してくるペルーをなんとかしようと考えた。そして、まずアンデス山脈を越えて、今のチリに向かい1810年にスペインの官吏を追い出し、チリとして今のチリの一部で独立を果たす。このチリを拠点にペルーに侵攻し、ペルーも1921年に独立させる。

この時のチリはまだ領土は少なかったが、その後1879年の戦争により周囲を併合して、現在のような南北に細長い領土を確立した。(チリについてば別記事参照)

5、ウルグイの独立と大戦争

アルゼンチンは1810年の「5月革命」以降も紛争が耐えなかった。副王国のはこの革命を認めずに対岸のモンテビデオに政府を移転、1811年にはブエノスアイレスとモンテビデオの戦いが始まる。この戦いは一度はブエノスアイレスの勝利となる。アルゼンチンは1816年にスペインから完全に独立するが、ブエノスアイレスとの統一はなかなかできなかった。
しかし、この地域の帰属を巡って、ブラジルとアルゼンチンが戦争状態に突入する。
1828年にブラジル戦争の集結と引き換えにアルゼンチンの一部だった東方州はウルグアイ東方共和国として独立した。ここで伝説となる33人の東方人が活躍した。ウルグアイの国歌にはその東方人のことが歌われる。

 

しかしその後も現在のウルグアイの地域はアルゼンチンとブラジルの間でその領有を巡り争いが続く。またもやブラジルの支配下になってしまう。睨み合いは続くがついに大戦争という名の大戦争が起こるのだ。

ここで登場するのが、ニース出身のイタリア統一の英雄、赤シャツ隊のガリバルディである。 (RWCでのイタリアとウルグアイの対戦は9月20日ニースです)

 

 

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