ラグビーの世界史」を読む 第六回 第7部 両大戦下における挑戦と変化(その2)

ラグビーの世界史 楕円球をめぐる200年 トニーコリンズ著 北代美和子訳 白水社

両大戦下における挑戦と変化

第7部では第二次世界大戦までの世界のラグビーの状況となります

第16章 オールブラックス対スプリングボックス(前回)

第17章 死のラグビー、十三人のラグビー、そしてヴィジー風ラグビー(今回)

第18章 英国のラグビーラッシュ(次回)

第19章 はるか彼方に ラグビーリーグ 1919ー39(次回)

第20章 第二次世界大戦中のラグビー(次回)

第17章 死のラグビー、十三人のラグビー、そしてヴィジー風ラグビー

今回はフランスのラグビーの歴史です。

話はファッション会のリーダーキャンの帽子の社長ジャンブレルの話です。
ピレネー山脈の小さな村キャン(人口3000人あまり)で帽子工場を始めて、フランスのトップブランドまでに押し上げました。

キャンは人口どうやら何か一つ足りないものあるらしかった。キャンはこの地域の他のすべての町や村と同じもの、「ラグビーの栄光」が欲しかったのである。

そしてジャンブレルは、強豪のペルミニャンから有力選手7名を引き抜きます。
自分の工場の社員として雇い入れます。

そして1929年の決勝で、隣町のレニジャンと対戦します。
キャンの優勝メンバー
ゲームはキャンが勝ちカップを手にしたのですが、このゲーム試合途中から、キャンの金に糸目を付けない補強にやじが飛び交い。ゲーム終了後に選手と2万人の観衆の間で乱闘になってしまいます。

 

それまでのフランスのラグビーは絶好調で人気もうなぎ上りです。
クラブ数が1920年の260から3年で860に跳ね上がります

1920年5カ国対抗でアイルランドに初勝利。1927年にもイングランドに勝利します。フランス選手権はラジオで生放送、モーリスシュビリエが「ラグビー絶好調」を録音、映画にもラグビー選手が登場します

1911年にはミシュランがクレルモンにラグビークラブを設立します。もちろん黄色のジャージで広告塔としても使用しています。

さらに熱狂状況はエスカレートします。

ゲームは激しさをまし、暴力まがいのプレーが起こり、ファン同士の小競り合いもたびたび起こるようになります。これらをアマチュア主義を推進する上層部は懸念を持って眺めていましや

そんな中2件の死亡事故が発生してしまいます。キャンのフッカーガストンリヴィエール、アジャンのミシェルブラティエ死亡事故です。

これでフランスのラグビー「死のラグビー」と批判も出てきてしまいます。当然英国のRUは目を付けられます。それは結果的には1927年のウェールズとのゲームがきっかけになってしまいました。

最終戦のコロンブ競技場でのフランスーウェールズ 戦は5万人を集めますが、ウェールズは血を流しあざを作り、それでも勝利した。しかし5万の観衆はレフリー に抗議の声をあげ、危険を察知したイングランドレフリーは非難した。

これで、

「IRBはフランスにおけるラグビーフットボールの試合の不満足なプレイおよび管理状況のためわれわれの管理下にある協会およびクラブはホームあるいはアウェイでフランス代表あるいはフランスのクラブとの試合を取りやめあるいは観光することができない。」

フランスアマチュアラ具協会(FIRA)を発足し、が強硬な姿勢をとったため、フランスでもリーグラグビーが発足します。

1933年オーストラリアカンガルーズがエキビションマッチを行います。十三人のラグビーがフランスで紹介されます。

ジャンガリア(すでにアマチュア違反で追放されていた)はフランスラグビーのキャップ保持者を集めて13人制でイングランドウェールズ遠征をして人気を集めます。次々にリーグラグビーに人材がながれていきます。

ジャンガリア

その結果、フランスには十三人のラグビーの新チームが数多く結成られます。

一方のFIRAは英国から占めだしを食ったために、欧州の大陸との結束を高めます。今のヨーロピアンカップの前身になります。

 

1940年にヒットラーが侵入、フランスにはペタン将軍のナチスよりのビジー政権が誕生します。ビジー政権のもとでは「労働家庭祖国政策」右派フランスの価値を推し進めその一つがアマチュアスポーツ信仰となります。

せっかく盛り上がったプロのリーグラグビーは禁止されてしまいます。そして十三人制の選手はすべて、アマチュアの普通のラグビーに無理やりに戻されてます。ペタン将軍の下でその任にあったたのは、ジャップバスコ司令官と「弾むバスク人」ジャンボトロトアです、彼がテニスのグランドスラム五回の名選手ですが、この時教育長官に任命され、アマチュア主義を推し進め、リーグラグビーを解散させます。実はポロトラももとラグビー経験者(バイヨネの選手)でした。

ジャップバスコ司令官はビジー政権の体育長官として、リーグラグビーを解散せなますが、彼は、帽子会社のキャンの社長ジャンブレルによって、ペルミニャンから金で引きにかれた六人の選手の一人でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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