ラグビーの世界史 楕円球をめぐる200年 トニーコリンズ著 北代美和子訳 白水社
両大戦下における挑戦と変化
第7部では第二次世界大戦までの世界のラグビーの状況となります
第16章 オールブラックス対スプリングボックス
第17章 死のラグビー、十三人のラグビー、そしてヴィジー風ラグビー(次回)
第18章 英国のラグビーラッシュ(次回)
第19章 はるか彼方に ラグビーリーグ 1919ー39(次回)
第20章 第二次世界大戦中のラグビー(次回)
第16章 オールブラックス対スプリングボックス(世界をめぐる戦い)
この章は、まずキングスカップトーナメントの話です。1919年各国の軍人チームがイングランドに集結して2ヶ月で16試合が組まれました。参加したのは英国空軍チーム、オーストラリア、南アフリカ、ニュージーランド、カナダ。1987年にワールドカップ が開催されるまで唯一の国際大会となリました。
この時の優勝チームは、英国チームとのプレーオフに勝ったニュージーランドでした。ニュージーランドは当時の国王ジョージ5世から優勝カップを受け取ります。
この時大活躍したのが、ランジウィルソンでです。
「世界最高のフォワードのひとり」とロンドンデイリーメイルは宣言した。(中略)ザタイムズ紙は「驚異的」と書いた。 ランジはイングランド人を母、西インド人を父としてクライストチャーチに生まれ、戦争前には10キャップを取得。
その人気が功をそうし、オールブラックスはそのまま南アへツアーが決定します。しかし、そのメンバーにはランジウィルソンは含まれていませんでした。
南アの人種政策のためです。
南アラグビー評議会からロンドンに下記のようなマル秘電報が届きます 「ビジターにマオリ人が含まれて入り場合、遠征はめちゃくちゃになり、政治的その他の形で大きな損害を招くだろう(後略)」
ランジは肌の色の違いで遠征には参加できませんでした。
続いて、1921年の南アのNZ遠征です。
南ア 1921ツアーチーム
NZ 1921チーム
この遠征はスクラムのフォーメーションの争いになります。当時はスクラムは8人で組むものとは決まっていませんでした。(明治大学の戦前のダブリンシステム の話などが思い起こされます)南アは一度は3ー4−1のスクラムを使ったがこの遠征では、3−2−3のスクラムを採用し、NZは伝統的な2−3−2のシステムを採用します。テストマッチはいずれも接戦となり人々は熱狂します。第一戦のダニーデンでは13−5でNZの勝利。第二戦はオークランドで9−5で勝利す、対戦成績は対になります。
第三戦の前にマオリオールブラッックスとの一戦が行われますが、人種問題発言などで禍根を残すことになってしまいます。
ウェリントンでの最終戦にはNZは奥の手をつかってきます。なんとリーグラグビーのスター選手カールイプユーセンをファイブエースに抜擢するのです。
カールイプユーセンのCAP
しかし雨の中のゲームは期待外れで両者無得点のまま引き分けに終わります。
1924年のNZの英国ツアーは32試合に全勝。その前に行われたライオンズ(当時はその名前はなかった)の南ア遠征は3戦とも南アの返り討ちにあってしまい。両チームの対戦がいつになるのか期待がもりががります。
その対戦が実現するのは1928年のNZの南ア遠征ですが、これにも人種問題が絡んできます。当時の主力であったジョージネイピアは肌の色の問題で参加できませんでした。
テストマッチの初戦は、後半のFWの爆発で17−0で南アが勝利。第二戦はヨハネスバークで行われオールブラックス が3ー4−1のスクラムを採用、南アに勝利する。
第3戦は南アも3−4−1を採用してきます。南アの勝利。第四戦はN Zが雪辱します。
このように南半球のラグビーが盛り上がりの中、北半球とは差ができてしまいます。
次は1937年の南アのニュージーランド遠征となります。
クライストチャーチでの第二戦で南アのスクラムがオールブラックスをづたづたにしてしまう。続いての第3戦でも17−6トライ数5−0、(スクラムは七十六回のうち四十八回)でスプリングボックスが圧倒して勝利して、世界のチャンピオンとして認められるようになる。
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