ラグビーの世界史 楕円球をめぐる200年 トニーコリンズ著 北代美和子訳 白水社
第四部嵐迫り来るなかの黄金時代
この章では、第一次世界大戦前のラグビーリーグと、ユニオンの状況が描かれます。黄金時代と呼ばれるほど、偉大な選手や歴史に残る名試合な行われるなどエポックメイキングなこどがありました。
今回も本書には掲載されていない写真等を付け加えて紹介します。
第13章 ハロルドワックススタッフとバスカヴィルの幽霊
第14章 第一次世界大戦以前の英国ラグビー
(屈辱を忍んで目的を達成する)
第15章 さらに偉大なゲーム?ラグビーと第一次世界大戦(次回)
第13章 ハロルドワッグスタッフとバスカヴィルの幽霊
この章はリーグラグビーのスーパースター、ハロルドワッグスタッフの話から始まります。(日本人の私にはリーグラグビーはなかなか馴染みがないので新鮮です)
ワッグスタップは1891年にヨークシャーホームワースで生まれた。14歳のとき、地元のアマチュアチームでプレーしたのが最初である。(中略)15歳と175日でハダーズフィールドと契約。当時は最年少のプロ選手であった。 (中略)その後17歳でイングランド代表デビュー。若干19歳でハダーズフィールドのキャプテンに指名され、続く15年間その地位を維持した。22歳で国代表のキャプテンになる。
その彼がイングラン代表とキャプテンとして、オーストラリア遠征した1914年7月4日のシドニークリケットスタジアムでの第二戦は、最もエキサイティングであったゲームとして紹介されています。
ラグビーリーグにとって、この試合は抑えられない勇気と決意の同義語、このスポーツの体現そのものであった。
負傷が続き選手交代がなかったので、イングランド代表は負傷を受けながら不屈の精神でゲームを続け、最終的には9名にまで人数を減らしたが、14−6で勝利を収めます。本書ではその手に汗握るゲーム展開が手に描き出されています。
このワッグスタッフは、NU(北部リーグ)出身で、この遠征までユニオンのゲームすら見たことがなかったということです。(つまり、リーグラグビーが定着しているということにほかなならないわけです)
この勝利のおかげて、ラグビーリーグの将来はどちらの半球においても確かなものになった。
その前の1906年のルール変更で、リーグラグビーはFWを2名減らし1チーム十三人制になります。プレイザボール(タックルされた選手は立ち上がって後方にヒールアウトをする)を導入したこのことが、エキサイティングでスピーディーなリーグラグビーの人気を隔離させることになります。
当時のユニオンのラグビーのルールでは、タックルされた選手は味方が集まるまでボールを確保しておくことができました(今では ノットリリースザボールになります)
続いての主人公はバスカヴィルです。ニュージーランドに十三人制ラグビーを広めた男です。
(「バスカヴィルの幽霊」とは、シャーロックホームズの「バスカヴィルの犬」に洒落て付けられたタイトルと思われます。)
アルバートバスカヴィルは、NZカンタヴェリーの郵便局員で優秀なラグビー選手でありました。「近代ラグビーフットボール」などの著書も執筆します。そして、彼はオープンなスピードあふれるラグビーの推奨者でありました。
1906年のオリジナルオールブラックス(ユニオン)の英国遠征の大成功を見、さらに帰国したオールブラックスの選手がイングランド北部のリーグラグビーの熱狂を見て悶々としていることを察知し、プロのオールブラックスを編成して、イングランドへ遠征することを画策します。
これで、頭の固いアマチュア主義のニュージーランド協会から目をつけられてしまいます。
しかし1907年、チームを編成し英国遠征を果たします。1905年のオールブラックスのメンバーも数名入っています。「幽霊チーム」と呼ばれました。
英国についたチームは早速北部のチームとのゲームを行いますが、驚くべきことにこの時のほとんどのメンバーが十三人制のラグビーが初体験だったとうことです。このチームは北部を中心に連戦を続けます。
しかし、その裏に悲劇があります。バスカビルは遠征中の1908年5月にインフルエンザで死亡してしまいます。(当時のインフルエンザは、現在のコロナのように怖いものでした)
三日間で肺炎を併発し、入院。ニュージーランドの選手たちはブリスベンを43−10で破った後、病院に見舞いにおとづれ、昏睡状態のバスカヴィルを発見見出した。6時、彼がその生活を変えた男たち、そして彼を通じて自分たちの手でラグビーを変えた男たちに看取られて、バスカヴィルがこの世を去った。25歳だった。
そして帰国したのちに、そのメンバー中心になって、ニュージーランドで十三人制のクラブが多数結成されることなります。
オーストラリアでも同様のことになります
チームが帰国した時にはすでにラグビーリーグはすでに佳境になっていました。
そして、次のシーズンにはユニオンとリーグの両代表が英国への遠征を果たします。
この時ユニオンの代表チームは初めて「ワラビーズ」を名乗ることになります。
遠征の結果はあまり芳しくはなかったと言います。
一方のリーグの代表チーム「カンガルーズ」もあまり成功したとは言えません。45試合で1勝しか挙げられず、赤字を計上します。
しかし両チームがオーストラリアに戻ると、ユニオンからリーグへと転向する者が多数出現します。
そして、シドニーでワラビーズ対カンガルーズの「世紀の一戦」が開催されます。新ルール(つまり十三人制です)で行われ、観客も18000人集めました。
このゲームで活躍したのは、元ユニオンで、オールブラックスの英国遠征にオースにオーストラリア人として一人参加したダリーメッセンジャーでした。彼は一説によると自陣の25ヤードラインからでもゴールキックを決めたと言われます。ユニオンからリーグに転向しました。
4戦して2勝2敗の結果でしたが、この後、ラグビーリーグの人気がユニオンをうわ回ります。
そしてその頂点が1914年この章の冒頭のワッグスタッグスのゲームが行われ、リーグラグビーの人気は決定的になります。
第14章 第一次世界大戦以前の英国ラグビー
(屈辱を忍んで目的を達成する)
この章では、母国のイングランドが長い低迷から復興して、ついに、現在の聖地トゥイッケナムスタジアムの建設を果たすまでが描かれます。
母国のイングランドでは、北部のリーグラグビーの人気とは別にユニオンラグビーの人気は低迷します。クラブ数も416から155に縮小します。また、代表チームの実力は残念なから地盤沈下をしてしまいます。しかし、そのことが、スコットランドやウェールズ、フランスの自力を相対的に上げ、そこでの人気の拡大に寄与することになります。
ウェールズではプリンスオブセンターと言われたゲヴィンニコールズの才能が爆発します。十五人のチェスの達人とも呼ばれます。同じチームにはテディモーガンやリーズゲイブなどのスーパースターもいて、彼らの実力を発揮させるのかケヴィンの技でした。
1910年にはフランスが5カ国対抗への加入が認められます。
そして、そのシーズンの1910年1月15日にトゥイッケナム競技場が完成、こけら落としが行われます。
日時は1910年1月15日、ロンドン西部の郊外がこんな光景を目にするのは初めてだった。抵抗できない渦巻きにのみこまれるように、数千人が緑の小道から姿を現し、小ぎれいなテラスハウスの前を通り過ぎていった。 絶え間なく列をなす群衆がウィットンロードに到着した時、目の前には新しいスタジアムがそびえていた。 トゥイッケナム。
イングランドの相手はウェールズでした。これまで年間イングランドはウェールズに勝利を挙げることができませんでした。しかし、キックオフ直後から生まれ変わったイングランドのラグビーを見せます。それを演出したのが、エイドリアンストゥープでした。キックオフのボールをすぐに蹴りださずに、オープンに回したり、ボールを継続するような新しいラグビーを体現します。
(現トゥイッケンムの横にトゥイッケナムストゥームという競技場があり、プレミアシップ等のゲームが行われていますが、この競技場の名前は彼、エイドリアンの名前からつけらています。)
ストゥープはオランダ系の家庭に生まれ、21歳の誕生日に父親からトルコのマルマラの大理石採掘場をプレゼントされ、一生何不住のないという以上の収入をもたらした。ラグビー校とオックスフォード大学で教育を受け、まだラグビー校在学中の1901年にハレクインズでデビュー、選手、戦術家、のちには運営者としてラグビーに不滅の足跡を残した。
ただし、このような栄光も戦火が見舞います(次回へ続く)