ラグビーの世界史を読む 第四回 第3部ラグビーを世界へ(その2)

ラグビーの世界史 楕円球をめぐる200年 トニーコリンズ著 北代美和子訳 白水社

 

いよいよ第3部です

下記の9章から12章で成り立っています。
9章と10章は前回にアップされています。(こちら)

(今回も本作にない写真や資料を集めて掲載しています。)

第9章 ニュージーランド
「色く長い雲のたなびく国のオールブラックス」(前回)

第10章 南アフリカ
「ゴクのゲームからスプリングボックスへ」(前回)

第11章 オーストラリア
「ワラルーズとカンガルーズ」

第12章 アメリカ合衆国とカナダ
「ラグビーからアメリカンフットボールへ」

 

第11章 オーストラリア
「ワラルーズとカンガルーズ」

 

オーストラリアのフットボールの歴史は、まずオーストラリアンフットボール(いわゆるオージーボール)から始まります。

最初に始めたのは、イングランドのラグビー校出身でメルボルンに移住してきたトムウィルス氏。この人です。クリケットチームの冬の体調維持のためのスポーツとして進めようとしました。

そして、メンバー募集の広告を地元週刊誌「ベルズライフ」に出しました。

また、ラグビー校出身で熱心なラグビー選手だったウィルスですが、ラグビー校のルールを改善して、もっと面白いスポーツにしようとする狙いもありました。

そして、オフサイドのルールや、マーク、ボールをバウンドさせるなど、今ではオージーボールの特徴的なルールが採用されます。メルボルンでは、メルボルンFCも結成され、人気も高まります。

 

最初のラグビーのクラブは1865年のシドニーです。最初はシドニー大学でチームが結成されましたが、対戦相手がメルボルン式なので、ゲームはオージーボールのルールでしか行われませんでした。

モンティアーノルドがシドニーに最初のラグビークラブ、ワラルーフットボールクラブを設立します。(ワラルーは、ワラビーとカンガルーの中間の大きさの動物で今ではラグビーの女子オーストラリア代表のニックネームになっています

1882年にはクイーンズランドとニューサウスウェールズの間でゲームが行われ四千人もの観客で埋まります。

1882年には初めてニュージーランドへ遠征します。

ニュージーランドからもプロフェッショナルなオールブラックスが遠征してきて、2つの国の間での交流も深まります。このときのオーストラリアチームに疲れら他名前が「オールゴールズ」でした。この名前は、報道機関が選手が金目当てにゲームをしていることを揶揄して呼んだものでした。

イングランド本国のRFUは歓迎しません。徹底したアマチュアリズムでプロを容認しないからです。

最初に英国遠征するときには「カンガルーズ」という名称でした。これ以降リーグラグビーのオーストラリア代表の名前になりました。

 

第12章 アメリカ合衆国とカナダ
「ラグビーからアメリカンフットボールへ」

 

まずはアメリカンフットボールの創設の神話が語られます。
主人公はウォルターキャンプ。イエール大学での優秀なハーフバックのプレーヤーでありました。

 

神話では、彼が一人で、スクラムをやめたり、アメリカンフットボールの複雑なルールを作り上げ、全米に広めたことになっています。

しかし、実際は、この程度のローカルルールの違いは当時は多くあり、報道もアメリカンフットボールとは呼ばずにまだ「ラグビー」と呼ばれていたことが、筆者から指摘されます。その後も人数の変更やオフサイドなどの変更がされていきます。

(私は神話を否定してしまうことは良し悪しに思います)

1905年、今度こそラグビーとアメリカンフットボールの枝分かれを決定づける出来事が起きます。全米の大学で盛んに行われていたラグビーで18名が死亡、暴力事件おきます。そこで時の大統領、セオドアルーズベルトが、ルールの改定を要求し、その結果、フォワードパスの容認がそのルールに追加されることになりました。

それでも、それに抗議して1906年のスタンフォード大、カリフォルニア大のゲームではラグビーのルールでゲームを行なっています


(1905年スタンフォード大対カリフォルニア大)

 

そして、1920年のアントワープオリンピックと1924年のパリでのオリンピックで、決勝でフランスを退けて、USAがラグビーで2連勝を果たします。

(1924年USAラグビー代表)

1904年のパリでのオリンピックの決勝は、パリのコロンブ競技場で行われました。前半からフランスはリードされます。結果的には17−3。これにフランスのサポターが激怒して、スタンドでファン同士の暴力事件がおきます。
(これ以降クーベルタン男爵の夢は敗れ、十五人制のラグビーはオリンピックで再開されていません)

この章の冒頭でこんな文章が書かれています。

「アメリカのファンは死んだと思った」と、フランス人の観衆に襲われたアメリカ人のファンについて、アメリカ人スリークウォーターのノームクリーブランドは語った。フランス人観衆が僕らに襲いかかってくるのは時間の問題だと確信した」

中略

コロンブ球技場のスタンドではフランスとアメリカ人サポーター同士で乱闘が勃発した。
負傷したアメリカ人は応急処置のためにアメリカ代表のロッカールームに運ばれた

 

(このような状態にも関わらず、アメリカでは、フットボールの歴史からはラグビーへの評価の記述はあまりされません。アメリカンフットボールにオリジナリティを付加し、文化やスポーツでもUSA独自に作り上げたという話にして、イングランド、欧州から完全に独立してナンバー1の位置にいることを見せたいための意図や国民感情が働いているのではないかと思われます。)

 

 

 

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