フランス史上の恐ろしき女子達 第三回 カトリーヌ・ド・メディシス(1)

2023年W杯でフランス各地を訪れる際に、歴史を知っていればさらに訪問の価値も意義も深まると思います。

フランスの歴史の中には、時代を左右させた様々な女性の姿があります。もちろん誰も知っていて有名なのはマリーアントワンネットやジャンヌダルクなのでしょう。しかしそれ以外にも、数奇な運命の元、私欲と陰謀が交錯し、裏切りと背徳に染まった女性がたくさんいます。そして彼女たちが結果的に歴史を動かしています。それが大抵はおぞましいいほどの血の匂いがして生臭いものなのです。その中には、単なる噂に過ぎないものや、いつの間にか闇に葬られて史実としては認められていないこともたくさんあります。このシリーズではそんな話を掘り起こしてみたいと思います。

 

フランス史上最大の大惨劇といえば、サンバルテルミの大虐殺です。(昔の教科書では英語読みで聖バーミュソローの虐殺)。1572年聖バルテルミの祝日(8月24日)にパリだけで3000人以上が殺害されました。カトリーヌドメディシスはその大殺戮劇の首謀者とされています。

カトリーヌドメディシスは、日本語にするとメディチ家のカトリーヌ。メディチ家と言えばイタリアルネッサンスのフィレンチェです。カトリーヌは、そのメディチ家の出身で、政略結婚でフランス王の第二子、アンリ2世の妻になります。しかし、夫は早くに事故死、宮廷はカソリックのリーズ家とユグノーのブルボン家主導権争いの泥沼、その上に立つカトリーヌがその両家の争いに油を注いでしまいます。彼女はイタリアから多量の毒薬を持参したと言われ、その毒薬で自在に双方の首謀者を毒殺し相手側の仕業とさせ、その抗争を加速させます。カトリーヌは、生まれながらに彼女の周りに壮絶な死の影がまとわりついてたのでした。(ちなみに薬の意味の英語メディスンの語源となるのが、メディチ家のメディチという言葉です。メディチ家はもともと薬屋から財を成した一家でした)

 

凄まじい死の数々 その1 両親の相次ぐ死、幼き頃から孤児として育つ

カトリーヌは、フィレンツエの大富豪、メディチ家の長女として生まれるが、母は産後の肥立ちが悪くカトリーヌを産み落とすと間も無く死亡。父も母の死後5日目に死亡。父はもともと放蕩癖があって身持ちが悪く病気持ちだったと言われている。本当の死因は不明。従ってカトリーヌは、生まれながらにして孤児として育てられた。時はフランスのフランソワ一世と、皇帝カルロス5世とのイタリア戦争の激動の時代であった。というと薄幸でかわいそうに思えるが、実はカトリーヌは大人びた性格で、策略家で大人を手玉にとって手のひらで転がし、自在に操るほどの手に余る子供だったという。

凄まじい死の数々 その2 皇帝軍指揮官の戦死とローマ劫掠

 

このイタリア戦争の中に起こった皇帝軍(ブルボン公が指揮官で、多くのルター派の傭兵軍)によるローマの略奪事件は、おぞましきものだった。多くの文化財、建物が壊され、人々が殺され、陵辱、略奪が行われた。このきっかけとなったのが皇帝軍の指揮官、ブルボン公の戦死である。この死に樣がまた、凄まじい。高いところから指揮を取ろうと塔の上にハシゴを登り切ったところを、頭を撃ち抜かれたのだった。そして、勝ったのに指揮官を失った傭兵たちが自制を失って、ローマ中を暴れまくり始めたのだった。それがイタリア史上最大の殺戮となった「ローマ劫掠(ゴウリャク)」である。

この「ローマ劫掠」によって、フィレンチェからもメディチ家が追放さて、イタリアルネッサンスが終了する。もちろん幼いカトリーヌも囚われの身になる。

 

凄まじい死の数々 その3 嫁ぎ先フランス王室と王太子の毒殺

カトリーヌは親戚のローマ法皇クレメンスの元に保護されたが、1533年フランス王の次男アンリとマルセイユで結婚式を挙げる。政治がらみの政略結婚だった。アンリは、すでに実は他に家庭教師の20歳年上のディアンヌに夢中だった。そのため、カトリーヌとアンリの間には子供がなかなかできなかった。

ディアンヌ

それでも最終的にはカトリーヌとアンリの間に最終的には十人の子女をもうけることになる。

不思議な事件は突然起こる。

1536年夫アンリの兄、王位継承権を持っている長男のフランソワが、テニス(正確にはテニスの原型とされるジュ・ド・ポーム)の試合中に水を一杯飲んだ途端に突然苦しみ出し、三日後に死亡。検死の結果は、なんの毒物も見つからなかった。

この時フランソワに水を出したモンテクリが犯人とされ、拷問の末、主犯の名を敵国の皇帝クレメンスと白状させらて、貼り付けの刑で処刑される。しかし、名指しされた皇帝クレメンスはカトリーヌを首謀者として反証する。確かに、首謀者をクレメンスとするのは論理的に無理がある。カトリーヌ首謀説は謎のままとなっているが、今でもフランスの一部では、カトリーヌが真犯人であると信じられている。カトリーヌが輿入れに当たって、イタリアから毒薬や薬草を大量に持ち込んだのも、また事実である。

 

凄まじい死の数々 その4 フランス王フランソワ1世の死去

フランソワ1世は1547年52歳で大往生する。フランスのルネッサンスを代表し、フランスの王家の財政を万全にし、多方面の戦争や和平交渉をし、多くの浮名を流した男にも。若い頃の遊びで感染した梅毒の毒がついに全身を蝕んでいた。死の床はパリ郊外のランブリエ宮殿。多くの人に見守られての死だった。この人だけはまあ良い方の死に様だったかもしれない。

フランソワ1世はのちにヴィクトルユゴーの「王は楽しむ」のモデルであり、オペラ「リゴレット」としても語り継がれている。

最後の言葉は「ほうら色男のご最後だ」だったという。また、側近には「女には気をつけろ」という言葉も残している。

これでアンリ2世が後を継ぎ、カトリーヌはフランス王妃の座につくことになった。しかし、夫アンリは妾のデュアンヌに夢中で、ディアンヌは宮廷内での力を持ち、カトリーヌとの女の戦いは続いていく。

凄まじい死の数々 その5 夫アンリ2世、馬上試合で事故死

フランスとハプスブルグ家の戦争であったイタリア戦争が集結し、和平協定としてカトーカンブリッジ条約が結ばれた。その合意に従って、1556年フランスでアンリ2世の二人の妹の2組みの和平のための政略結婚の結婚式が行われた。そのおめでたい席上の余興(馬上試合)の最中に事件が起こる。またしてもスポーツの競技中の出来事である。アンリ2世の事故死、41歳であった。兄であるフランソワがテニスの試合中に倒れてからちょうど20年後のことになる。

ことの史実はこういうことで一応事故となっている

結婚式の余興で馬上試合が行われた
スポーツマンであるアンリ2世は馬上試合に出場する。
1回戦が行われる
対戦相手のモンゴムリ伯(ガブリエル)はもちろん忖度して、王様に怪我をさせないようにわざと負ける。
しかし、その負け方がいけなかった
アンリは言う「今のはインチキだ、本気で戦う気のあるものはいないのか」
そして2回戦 もう一度モンゴムリ伯との再戦が組まれる
それが、本気の勝負になってしまった。
槍の先がアンリの兜の間から左目を突き刺し、その先端は脳まで達していた。

しかしこの事件はこれで終わりではなく、謎や逸話はたくさん残っている。

この死は、この時代に宮廷で活躍した予言者、ルーカガウリコとノストラダムス(日本ではノストラダムスの大予言で有名)の二人の予言が、その通りに的中した点でも有名な死である。

カトリーヌはこの二人の予言者と懇意にしており、予言をあらかじめ聞いていた。そしてアンリには馬上試合に出ないように熱心に働きかけたとされる。アンリは本妻のカトリーヌの忠告を聞かなかった、というより逆に意地になって身を引かなかった。妾のディアヌにかっこいいところを見せたかったのだった。

結果的なのか、意図的なのか、これでカトリーヌの仇敵、宮廷を牛耳っていたディアヌもついに宮廷を去ることになる。これで、フランスの城でも最も美しいとされるシュノンソー城がディアンヌから取り上げられ、カトリーヌのものになる。

スポーツマンである王は、死に際に相手のモンゴムリ伯(ガブリエル)を赦す遺言を残した。モンゴムリ伯は一度はイングランドへ身を隠した。しかし、カトリーヌはその後15年に渡り、執拗に恨みを持ち続け、最後はモンゴムリがフランスに将軍として戻ってきたところを、騙し撃ちにして捉えついに斬首する。
(モンゴムリの子孫は、その400年後に第二次世界大戦で活躍した英国軍人モントゴメリー将軍です)

カトリーヌは、幼い息子たちを抱えて、摂政という立場で王宮を仕切ることになる。

(次回に続く、まだまだ続く)

 

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