ラグビープロ化新リーグ構想と「資本論」

ラグビー新リーグは完全なプロ化を目指しています。そこには選手のプロ化だけでなく運営のプロ化も望まれています。

そこで考えてみなければならないのが、プロフェッショナルとは何かということです。プロフェッショナルとはなんでしょうか?報酬を得る、お金をとるからプロなのでしょうか?実は違います。プロフェッショナルは日本語では職業と訳されますが、実はそこに深い意味があります。もともとの語源PROFESSはは宗教用語でした。PROFESSとは誓いを立てて宗門の道に入るということです。その道に一生を捧げるという意思表示をするということです。つまりその道を極めることが第一で、つまりお金を取るかどうかは二の次です。(NHKの番組プロフェッショナルを一度でもご覧になられた方はわかるでしょう)

前置きが長くなりましたが、今回のテーマである資本論の話を始めたいと思います。マルクスの「資本論」によれば、資本主義社会では世の中のあらゆるものが商品という形になっていきます。今まで共有のものだったり、価格のつけようのないことも価格がつき商品になります。それそのものの「使用価値」でなく「交換価値」が優先されるということです。これまで誰のものでもなかったものが囲い込まれ、商品となります。無料だった水も今やペットボトルで売られます。昔は公園や空き地でボールを蹴って遊べたのに、今ではお金を出してグランドを借りなければなりません。今まで誰のものでもなかったラグビーもどんどん商品化されて行くということです。(実は地域のラグビースクールでも最近、習い事のようにお金をとって指導するスポーツ塾なども既に現れ始めました。)

そもそもラグビーは英国でフットボールとして、年に一度の地域の祭りの行事として行われていました。それをパブリックスクールの校庭でやるようになり、それが、地域のラグビークラブで行われるようになったのです。そこには金儲けの匂いは全くありません。有産階級中心(ウェールズだけは労働者階級のスポーツでした)ですが、ラグビーはその地域みんなのものだったのです。その一方いち早くサッカーのプロ化(=商品化)が始まります。サッカーの世界的普及を横目にラグビー界は変なアマチュアリズムにも縛られ、ほんの最近まで、金儲けの手段としてのスポーツのあり方を拒否し続けました。しかし、世界を席巻する資本主義の魔の手はそれを許さず、ラグビーに商品価値のあることが見事に暴かれてしまいました。(期せずして、ラグビーのプロ化と89年のベルリン壁崩壊はほぼ同時期になります。)

一方で日本のラグビーは、(いやラグビーに限らず、日本のスポーツやスポーツチームそのものに)その黎明期から今まで、地域のもの、みんなのものという文化の醸成にまでは至っていません。日本のラグビーはクラークによる慶應の学生ラグビーから始まりました。当初の目論見とは別にその後、学生ラグビーは「体育会」という資本主義社会での戦士(=資本家にとって価値ある労働力)を作り上げるための教育の一環としての独自の発展を遂げます。花園も、一部学校ではその学校という商品価値を高める手段にも使われてしまっています。そしてだいぶ遅れて、社会人の余暇のラグビーチームができます。社会人のラグビーは、資本主義の波の中で、親会社の利潤追求との間で揺さぶられる歴史を辿りながら発展しました。(参照)結局トップリーグという枠組みもその流れの中の一環に過ぎませんでした。

資本主義は昭和の日本にとっては非常に良いシステムだったことは確かです。高度経済成長は「ドーナツの内側からドーナツの淵」まで引き上げました。私たち「ルンペンプロレタリアート」もその経済性成長を謳歌し、週末にはプチ贅沢にビールを飲みながららラグビーを観戦して好き勝手なことを言っては楽しんできました。ラグビーをプレーするにも観戦するにも、その場所、その時間には嘘のない、純粋な、プライスレスな感動や経験があったからです。
その裏でウイークディにはその労働力を搾取されているとは思わず、世界での南北格差を助長し貧困層が拡大してているとは露知らず、地球環境の危機が迫っていることも忘れてです。その意味では、ラグビーも「大衆のアヘン」の一つだったのかもしれません。

今になって、私たち誰もが今回のコロナの猛威の中で、いろいろ考えることがあったかと思います。もう薄々コロナ以前の生活や社会に戻ることはできないと感じているのではないでしょうか?そうです。経済発展を求める資本主義そのものが限界にきているのは誰もが感じ始めていることです。いき過ぎた資本主義が、世界での格差を生み、地球を破壊し、持続可能性を失いつつあります。お金が金を生み続け、資本収益率(r)>経済成長率(g)という事態(つまり金が金を生むのが働いて得る金より大きい=トマピケティ)というまでに至ってます。行くところまで行ってしまったということです。

そもそも、ラグビーの感動はプライスレスなものです。

この時期にラグビープロ化=商品化でしょうか?商品化、商業化するという意味でのプロ化ではなく、この記事の冒頭に書いた本来の意味のプロ化なら意味があります。

ラグビーという富を、商品化という資本主義的な成長よりも、英国で生まれたその本来の姿、地域のコミュニティーのものにしていかなければなりません。ラグビーチームを地域の共有財産にしなければなりません。地域に根ざしたクラブ化=コモン化こそが今後の姿ではないかと思います。その時には、その道に身を投じる覚悟を持った優秀なラグビープレーヤーだけでなく、組織運営の能力、才能を持ったプロフェッショナル(身を捧げる人)も必要になります。当然そのようなプロ意識を持った関係者の活動には、報酬は支払われて当然です。「奉仕と贈与」、寄付やボランティアを中心としたなるたけ等価交換の運営が望まれます。そしてもちろん、運営の透明性の確保は必須のものになります。現在のラグビー協会のような密室での決定は御免です。

マルクスはこう言います。
「各人は能力に応じて生産し、必要に応じて消費する」

参考文献


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